礼拝式次第
「今日の礼拝を、インターネットを通してささげたいと思います。
今回は賛美もいたしますが、音楽は、フリーに使えるものを用いています。賛美歌の歌詞は、画面に出てきます。今日賛美しますのは575番『球根の中には』と430番『とびらの外に』と65-1番『今そなえる』の3曲です。
私たちは、もうずいぶん長い間、忍耐して、家の中に留まってきました。
聖書には、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とあります。
私たちの中に、そのような実りが与えられようとしているのではないでしょうか。
私たちに実を結ばせてくださる神を、礼拝しましょう。
私たちは今、神と共にあって、一つです」。
「今から、前奏を流しますので、心を神様に向けてください」。(1分、音楽)
「ただ今から、礼拝を始めます。招きの言葉。新約聖書、ヨハネの黙示録3章20節。
『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう』」。
「開会の祈りをささげましょう」。
「神様。私たちは今、あなたと出会いたいと願ってここに集まっています。どうぞ今、私たちのところにいらしてください。あなたの御心に触れさせてください。あなたの光を与えてください。私たちが、この世の暗闇の中でも、道を間違えることのないように、あなたが今、私たちを照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
「罪の告白をいたしましょう。私たちは皆、神の前には罪ある者、神に逆らう者です。しかし、罪を告白するならば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清めてくださいます。今、私たちの罪を神に告白いたしましょう。ご自由にご自分の言葉でなさってください。声に出されても、出されなくても構いません。どうぞ」。(1分・音楽)
「神の恵みによって宣言します。主イエス・キリストの十字架を信じるあなたがたは、罪を犯すことがあっても新しい人です。罪を犯すことがあっても神の子です。神は砕かれた魂を何よりも喜んでくださいます。イエス・キリストは罪を犯した女に言われました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
一同「アーメン」。
「神がキリストにあって私たちを赦してくださいました。私たちも互いに赦し合いましょう。イエス・キリストの平和があなたがたと共にありますように」。一同「あなたにもありますように」。
「御霊の照らしを求めて祈りましょう」。
「父なる神様。あなたの御力によって、私たちの心と思いを開いてください。今から聞くあなたの御言葉を、喜びを持って受け入れ、感謝してあなたに従うことができますように。どうか、語る者にも聞く者にも、御霊の力強い導きをお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。
「子どもたちと共に御言葉に聞きましょう。子どもさんたちは前の方にどうぞ」。
「子どもたちと共に賛美しましょう。賛美歌575番『球根の中には』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。
「御言葉に聞きましょう。新約聖書・マタイによる福音書12章46節から50節です。お読みしてから、『まことの家族』という題で説教をいたします」。
(朗読後、説教者)「これは神様の御言葉です」。一同「主よ、感謝します」。
(説教後、説教者)「しばらく御言葉を思いめぐらす静思の時をもちましょう」。(1分)
「賛美しましょう。賛美歌430番『とびらの外に』です。歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください。前奏を流しますので、その後から賛美してください」。
「神様に対する感謝と献身のしるしとして、献金をささげましょう。
お時間がある時に封筒をご用意いただいて、献金を入れて、保管しておいてください。
お振込みでささげていただくこともできます。
献金は任意でしていただくものですので、ご用意のない方は構いません。
献金をおささげした後に、賛美歌65-1番で賛美をささげ、その後に、お祈りをいたします。
賛美歌65-1番の歌詞は画面に出てきますので、ご覧ください」。
(説教者による祝祷)(後奏10秒ほど)
「新しい状況の中で、新しい困難が皆さん様々にあると思います。
しかし、困難の中でも、神様は、救いのご計画を進めてくださる方です。
今日も、神様の救いのご計画はまた一歩前進しました。
そして、私たちは、今日も明日も、その中に置かれています。
これで礼拝を終わります。良い一週間の旅路となりますように」。
まことの家族
真正的家人
マタイによる福音書12章46節から50節
马太福音12章46-50节
46イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
耶稣还对众人说话的时候,不料,他母亲和他弟兄站在外边,要与他说话。有人告诉他说:“看哪,你母亲和你弟兄站在外边,要与你说话。”他却回答那人说:“谁是我的母亲?谁是我的弟兄?”就伸手指着门徒说:“看哪,我的母亲,我的弟兄。凡遵行我天父旨意的人,就是我的弟兄、姐妹和母亲了。”
先週は妻のいとこの葬儀があった。
上周是我妻子表兄的葬礼。
いとこはオーストラリアに住んでいたので、日本からは誰も行くことができなかった。
表兄住在澳大利亚,所以日本这边谁都没法去。
そのため、インターネットで葬儀の様子がライブ中継された。
因此,葬礼在网上进行了实况转播。
妻のいとこなので、当然、自分とは血はつながっていない。
因为是妻子的表兄,自然和我没有血缘关系。
もちろんそれでも親戚だけれども、年が19才も離れている。
即便如此也还是亲戚,但年龄差了19岁。
あまり深い交わりをしたことはなかった。
几乎没什么深的交情。
しかし、葬儀の時には、家族であるという思いを強く感じた。
可是,葬礼的时候,我强烈地感觉到了是家人的这种念头。
最期の最期に、いとこは、信仰を残していった。
最后的最后,表兄留下了信仰。
妻のいとこは、最期の最期まで、神と共にあって、平和だった。
妻子的表兄,直到最后一刻,都与神同在,很平安。
子どもたちは当然、悲しかった。
孩子们自然很伤心。
その息子さんは、普段通り明るく楽し気な父の様子を見て、自分が父の死を見ることは何も悲しいことではないと知った。
儿子看到和往常一样开朗乐观的父亲,知道自己看到父亲的离去并不是什么伤心难过的事。
牧師の話の中でその話を聞いて、この人はイエスの弟だった、と感じた。
从牧师的讲话中听到这话,感觉这人是耶稣的弟兄。
自分もそうだ。
自己也是。
私たちは、まことの家族だ。
我们是真正的家人。
私たちは、イエスの弟だ。
我们都是耶稣的弟兄。
直接話したことはほとんどない。
几乎没有和他直接说过话。
しかし、これは肉の上での交わりの問題ではない。
可这不是用肉身交流的问题。
霊の次元でのこと。
是灵里面的。
まことの家族。
真正的家人。
イエスが人々を集めて、話をしている。
耶稣聚集众人,讲道。
人々はイエスの話を聞きたい。
众人想要听耶稣的话语。
そこに、イエスの母と兄弟たち。
那里有耶稣的母亲和弟兄。
家族。
是家人。
血がつながっている。
有血缘的。
いくらでも話をしてきた関係。
说过无数话。
それどころか、一緒に生活してきた。
非但如此,还一起生活。
けれども、この人たちは、イエスの話が聞きたいわけではない。
可是,那些人并不想听耶稣的话语。
「話したいことがあって外に立っていた」。
“站在外边,要与他说话。”
話をしているイエスに、話したいことがある。
有话想要对正在讲话的耶稣说。
それも、家族の誰か一人がやって来たのではなく、母と兄弟たちでやってきた。
而且,不是家人中的某一个来,母亲和弟兄都来了。
何を話したいのか。
想要说什么呢?
マルコによる福音書の3章31節からのところには、この場面と同じ場面が描かれているが、その少し前の3章21節には、この時の母と兄弟たちのことが良く分かるようなことが書かれている。
马可福音3章31节开始,写的是和这相同的内容,稍前面一点的21章中,当时母亲和弟兄的事,写得很清楚明白。
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」。
“耶稣的亲属听见,就出来要拉住他,因为他们说‘他癫狂了’。”
これは辛いこと。
这是很难受的事。
母は、自分の子どもが気が変になっていると言われた。
母亲被人家说自己的孩子癫狂了。
弟たちは、自分の兄が気が変になっていると言われた。
弟兄们被人说自己的兄长癫狂了
同じ家族として、情けない気持ちになった。
作为一家人,感觉很可耻。
しかも、そこには「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」と書かれている。
而且那里还写到“听了耶稣的事情要来拉住他”。
力づくで、という感じ。
尽力阻止,是这种感觉。
情けなくなったどころか、イエスに対して腹を立てていたかもしれない。
岂止是丢人,可能对耶稣还很生气。
それも仕方がないかもしれない。
这或许也是没办法的。
イエスは30歳ごろから神の働きをしはじめた。
耶稣30岁时开始了神的做工。
それまでは、家の長男として、家を守って働いていた。
在那之前,作为家里的长子,为守护这个家而工作。
それが、30歳ごろから家を出て、神の働きをしはじめた。
可是,30岁开始离开家,开始了神的做工。
家族としては大変困ること。
对家人来说是非常为难的。
聖書に書かれているわけではないが、父のヨセフは早くに天に召されたらしいので、イエスは家の長だったはず。
圣经上虽然没有写,但是父亲约瑟好像很早就归天了,所以耶稣应该是一家之主。
家族はイエスに良い思いを持っていなかっただろう。
家人对耶稣应该不抱什么好感吧。
イエスの話を聞きたいという人がたくさんいるとしても、家族としては困る。
即使想要听耶稣话语的人有很多,对家人而言还是很为难的。
それに、良い話をする人だ、ということで人気があったとしても、全員に好かれているわけではない。
即使在那里因为他讲得好所以受欢迎,但并非所有人都喜欢。
イエスのことを、「気が変になっている」という人もいた。
也有人说耶稣“癫狂了”。
家族としては、イエスのことで、本当に困っていた。
作为家人,因为耶稣,真的很为难。
そこで、今日、母と兄弟たちがイエスのところにやって来た。
于是,今天,母亲和弟兄来到了耶稣那里。
家族とは何なのか。
家人是什么呢?
家族だから幸い、ということもあるが、家族だから困ることもある。
有因为是家人而幸福的,也有因为是家人而为难的。
支え合うこともあれば、足を引っ張り合うこともある。
有互相支持的,也有拖后腿的。
しかし、母と兄弟たちは「外に立っていた」と書かれている。
可是,这里写到母亲和弟兄“站在外面”。
そのことをイエスに知らせた人も、その言葉をつかった。
通知耶稣的人也用了这话。
「外に立っておられます」。
“站在外面”
「外に立っている」とはどういうことか。
“站在外面”是什么意思呢?
内側に入ってこない。
不进到里面。
しかし、そこにいる。
可是,在那里。
いなくなったわけではない。
并没有离开。
イエスの働きを止めさせるために、そこにいる。
为了让耶稣停下工作,所以在那里。
それが、「外に立っている」ということ。
这就是“站在外面”。
血がつながっている、ということの大変さ。
这就是有血缘的难处。
これが他人ならまだいいけれど、血がつながった家族だから、放っておかれない。
这要是别人的话无所谓,因为是有血缘的家人,不能放任不管。
このすぐ前の場面で、聖書の専門家たちがイエスに対して、「しるしを見せてください」と言った。
就前面的内容,文士们对耶稣说“显个神迹给我们看”
イエスが神の元から来たという証拠を出せということ。
也就是要求耶稣拿出从神而来的证据。
この人たちも、「外に立っている」。
那些人也是“站在外面”。
私が、正しい立場から、正しい目で見て、私が判断します、という考え。
我从正义的立场,以正义的角度,来判断,是这种想法。
イエスは神の言葉を伝えた。
耶稣传达了神的话语。
しかし、神の言葉の外に立っている人たちは、神の言葉を神の言葉だと認めない。
可是,站在神话语之外的人,不把神的话语当作神的话语。
聖書の専門家たちは聖書を読んでいた。
文士读过圣经。
聖書は神の言葉。
圣经是神的话语。
しかし、イエスによると、この人たちは、神の言葉を心の掃除に使っていただけ。
可是,在耶稣看来,那些人只是用神的话语来清扫内心。
神を自分の主人にしたのではない。
没有把神当成自己的主人。
外に立っている。
站在外面。
イエスは、家族が外に立っていることを伝えに来た人に答えた。
耶稣回答了传话给他说家人站在外面的那人。
「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。
“谁是我的母亲?谁是我的弟兄?”
「そして、弟子たちの方を指して言われた」。
“并且伸手指着门徒说”。
弟子たちこそ、内側にいる。
门徒才是家人。
神を主とし、イエスを主としている。
把神当主,把耶稣当主。
「『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」。
“‘看哪,这里有我的母亲,我的弟兄。凡遵行我天父旨意的人,就是我的弟兄,我的母亲了。’”
私たちは誰でも、イエスの家族になれる。
我们无论谁都可以成为耶稣的家人。
「天の父の御心を行う」なら。
“遵行天父旨意”的话。
弟子たちは何を行っているのか。
门徒作了什么呢?
少なくとも今、話しているのはイエス。
至少现在说话的是耶稣。
弟子たちが話をしていたわけではない。
门徒并没有说话。
弟子たちは、そこにいた。
门徒在那里。
そこにいて、イエスの話を聞いている。
在那里听耶稣说话。
それがいつものこと。
一直都是这样。
それがイエスの弟子。
这就是耶稣的门徒。
気を付けたいのは、聖書の専門家たちは、「天の父の御心を行」っているつもりだったということ。
希望大家注意的是,文士们打算如何“遵行天父的旨意”行事。
聖書を読んで、その通りに生活を整えていた。
读圣经,按圣经话语过活。
しかしそれは、イエスに言わせると、心の掃除をしているだけで、心の中は空っぽだ、ということ。
可是,这让耶稣来说的话,只是清扫身心,内心是空的。
心の中に神がいないということ。
心里面没有神。
私たちは、自分が「天の父の御心を行」っていると思う時には気を付けた方がいい。
我们想要“遵行天父旨意”的时候最好要注意。
考えてみると、テロリストが、神の名によってテロを行うことがある。
想想看,恐怖分子以神的名义实施恐怖行动。
復讐する側も、神の名によって復讐することがある。
复仇者以神的名义复仇。
私たちは、自分の考えと神の御心を区別するべき。
我们应该把自己的想法和神的旨意区别开来。
イエスの弟子たちは、どのようであったか。
耶稣的门徒是怎样的呢?
ただただ、イエスの話を聞く。
只是听耶稣的话语。
彼ら自身は、自分が「天の父の御心を行っている」などとは思ってもいなかっただろう。
他们自己都没有觉得自己在“行天父的旨意”吧?
自分が何かをしているとは思わない。
不觉得自己在做什么?
いつもずっとイエスの言葉を聞いていた人たち。
一直都是聆听耶稣话语的人。
しかし、それは御心。
可是,这就是神的旨意。
天の父の御心。
天父的旨意。
天の父は人を救いたい。
天父想要拯救。
そのために、イエスをつかわして、イエスは神の話をする。
因此,差遣耶稣,耶稣讲述神的话语。
その話を聞く。
听这话语。
聞いて受け入れる。
听后接受。
悔い改めて、救われる。
悔改,得救。
これが御心に適うこと。
这就合神心意。
聖書の専門家たちは、聖書を読んで、生活を整えていた。
文士读圣经,休整生活。
それは無駄なことではない。
这不是毫无用处。
ある意味、それは弟子たちも同じだっただろう。
某种意义而言,和门徒是一样的。
ただ、神の御心は、私たちが神の言葉を聞いて悔い改めること。
不过,神的心意是我们聆听神的话语而后悔改。
悔い改めて、救われること。
悔改、得救。
そして、イエスが私たちを救ってくださる、まことの家族にしてくださると信じていい。
而且要相信,耶稣拯救我们,把我们当作真正的家人。
イエスの家族はこの時は外に立っていた。
耶稣的家人这时站在外面。
そして、この後、家に帰って行ったのだろう。
并且后来应该是回家了吧。
しかし、聖書を読んでいくと、後になって、イエスの家族はイエスの弟子になっていったことが分かる。
可是,读圣经的话,就会明白后来耶稣的家人也成了耶稣的门徒。
肉の家族であることを超えて、霊の家族になっていった。
超越了肉身的家人,成了灵里的家人。
そこにどのような導きがあったのかは分からない。
我们不明白这是如何引领的。
ただ、イエスは外に立っている人を招いてくださる。
不过耶稣招呼站在外边的人。
それを信じて良い。
要相信这点。
イエスと、まことの家族になろう。
和耶稣成为真正的家人吧。
霊的な家族。
灵里的家人。
もちろん、肉のつながりも良いものではある。
当然,肉身的关联也很好。
特に、外出を自粛しなければいけないような時期なので、なおさらそう思う。
特别是在外出禁止的时期,更是这样觉得。
私も、いとこの葬儀に行きたかった。
我也想去表兄的葬礼。
本当に最後だから。
因为真的是最后一面。
もう私はこの後何年生きていても、この世でいとこに会うことはない。
我今后不管活多少年,在这世上再也见不到表兄了。
ただ、今日、イエスは肉には目を向けない。
不过,今天,耶稣的眼目没有看向肉身。
イエスは今日、肉の家族の方は見なかった。
耶稣今天没有看向肉身的家人。
49節に「弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」とある。
49节,“伸手指着门徒说:‘看哪,那里有我母亲,我的弟兄。’”
その「指して」という言葉は、聖書の原文では「手を差し伸べて」という言葉。
这个“指”在圣经的原文中是“抬起手伸出去”。
人を救う時、イエスは手を差し伸べる。
救人的时候,耶稣抬手伸出去。
その手が、私たちに差し伸べられている。
这手抬起来伸向了我们。
イエスが私たちを救ってくださる手が、私たちに差し伸べられている。
耶稣拯救我们的手,抬起来伸向了我们。
肉のつながりよりも、もっと深いつながりへと、私たちは招かれている。
比起肉身更深的联系是呼召了我们。
イエスの家族になろう。
做耶稣的家人吧。