
「良い麦と毒麦」
麦子与稗子
新約聖書・マタイによる福音書13章24節から30節
新约圣经・马太福音13章24-30节
24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
耶稣又设个比喻对他们说:“天国好像人撒好种在田里,及至人睡觉的时候,有仇敌来,将稗子撒在麦子里就走了。到长苗吐穗的时候,稗子也显出来。田主的仆人来告诉他说:‘主啊,你不是撒好种在田里吗?从哪里来的稗子呢?’主人说:‘这是仇敌作的。’仆人说:‘你要我们去薅出来吗?’主人说:‘不必,恐怕薅稗子,连麦子也拔出来。容这两样一齐长,等着收割。当收割的时候,我要对收割的人说:先将稗子薅出来,捆成捆,留着烧,惟有麦子要收在仓里。’”
キリスト教の幼稚園にいた時のことを思い出す話。
想到了在基督教幼儿园时候的事情。
幼稚園の先生たちがイエスの話をしてくれる。
幼儿园老师会讲耶稣的故事。
話の内容は忘れてしまったが、とても話が上手な先生たちだった。
虽然不记得故事的内容了,但是老师很会讲故事。
私は、幼稚園で聞いた話を、よく周りの大人たちにしていた。
我经常把在幼儿园听到的故事讲给周围的大人。
ある時、親に絵本を読んでもらった。
有段时间,父母给我读图画书。
キリスト教の話ではなかったが、その絵本に出てくる人が夜眠る時、布団の上で手を組んで寝た。
不是基督教的故事,图画书里的人晚上睡觉时,枕着手睡在被子上。
それを見て、「この人はクリスチャンじゃないのか」と聞いた。
看到这,我问道“这人是基督徒吗?”
それは日本語に翻訳された外国の絵本だった。
那是翻成日语的外国图画书。
母は、「この人はアメリカかヨーロッパの人だから、クリスチャンだ」と答えた。
母亲回答说“这人是美国人或者欧洲人,所以是基督徒”。
「どうしてアメリカかヨーロッパの人だったらクリスチャンなの?」。
“为什么美国人欧洲人的话就是基督徒呢?”
「アメリカやヨーロッパの人はみんなクリスチャンだ」。
“美国人欧洲人全都是基督徒。”
驚いた。
当时很惊讶。
「じゃあ、アメリカやヨーロッパの国には悪い人はいないんじゃないの?」。
“那么,美国、欧洲这些国家就没有坏人了对吧?”
母ははっきりとは答えなかった。
母亲没有明确地答复。
「どうなのかな……」。
“是怎样的呢……”
今は、その答えを知っている。
现在知道了答案。
信じている人もいれば、信じていない人もいる。
有信的人,也有不信的人。
今日の話は、良い麦と毒麦のたとえ。
今天的话题是麦子与稗子的比喻。
「種を蒔く人」のたとえに続いて、こちらも種を蒔くたとえ。
继续“撒种的人”的比喻,这也是撒种的比喻。
天の国をたとえた話。
天国的比喻。
天国と聞くと、遠い空の上での話かと思ってしまうが、そうではない。
一听到天国, 会认为讲的是遥远的天堂的故事,其实不是的。
天の国はこの地上に広がっていくものなのだということ。
天国就延伸在这片土地上。
死んでからしか行けないようなところではない。
并不是只有死了以后才能去的地方。
イエスが種を蒔いてくださって、天の国が今もこの世界に広がっていっている。
耶稣撒种,天国如今依然在这世间。
私たちはそう信じて良いのだとイエスに言われている、約束されている。
耶稣说,我们信就好,和我们这样约定了。
ここのところではイエスはたとえ話をしている。
这里耶稣用比喻讲道。
イエスは、大勢の人たちには、たとえ話で話した。
耶稣对众人说比喻。
しかし、弟子たちには、たとえではなくストレートに話した。
可是,对门徒没有用比喻,直截了当地说。
少し後で、弟子たちがイエスに、たとえの意味を質問すると、イエスはその意味を教えた。
后来,门徒问耶稣比喻的意思,耶稣告诉了他们其意义。
ストレートに教えた。
直接告诉的。
良い種を蒔く人はイエスのこと。
撒好种的人是耶稣。
畑はこの世界。
田地是这世界。
イエスはこの世界に良い種を蒔く。
耶稣向这世界撒好种。
ではその良い種とは何かと言うと、神の国に属する人たち。
那么这好种是什么呢?是指属神国的人。
天国のメンバー。
天国的一员。
それに対して毒麦は悪い人たち。
与此相对的,稗子是坏人。
毒麦を蒔いた敵は悪魔のこと。
撒稗子的敌人就是魔鬼。
ということなので、毒麦は悪魔に属する人たち。
因此就是说稗子是属魔鬼的人。
悪魔に支配されている人たち。
由魔鬼支配的人。
世界には天国のメンバーと悪魔のメンバーがいるということ。
就是说世上既有天国的成员也有魔鬼的成员。
私たちは皆、種。
我们大家都是种子。
ただ、イエスが蒔いた種と、悪魔が蒔いた種がある。
不过,既有耶稣撒的种,也有魔鬼撒的种。
私たちは皆、自分の親から生まれてきたが、親がどのような人なのかとは別に、まだ種の内から、神の国に属する人と悪魔に属する人に分かれている。
我们大家都是自己的父母生的,但是跟父母是怎样的人并没有关系,另外,在种子里面,分成了属神国的人和属魔鬼的人。
良い麦の種は良い麦にしかならない。
好麦种只可能长成好麦。
毒麦の種は毒麦にしかならない。
稗子只能长成稗子。
私たちは、自分がこれからどうなるのか、自分の周りの人がこれからどうなるのか、先のことは何も分からないが、神の目には最初から明らかだということ。
我们事先完全不知道今后会变成怎样,周围的人今后会变成怎样,但是神从一开始就知晓了。
それが、私たちの目にも明らかになるのが刈り入れの時。
我们晓得将是在收割的时候。
この刈り入れの時とは世の終わりの時だとイエスは弟子たちに説明した。
耶稣向门徒说明,这收割的时候就是世界末了的时候。
刈り入れの時に、良い麦も毒麦も抜かれて、良い麦は倉に入れられる。
收割的时候,麦子和稗子都拔了,麦子收在仓里。
神様の元に置かれる。
放在神那里。
毒麦は焼くために束にされる。
稗子捆成捆留着烧。
その、良い麦と毒麦を分けるのが、天使たちだということ。
将这麦子和稗子分开来的是天使。
ストレートな話。
直截明了的话语。
しかし、この話は、良い麦と毒麦が分けられるのは刈り入れの時になってからだという話。
可是,这里说的是区分麦子和稗子是从收割时开始的。
それまでは、良い麦も毒麦も、一緒にこの世界にいる。
之前,麦子和稗子一起存在于这世上。
私たちはどちらだろうか。
我们是属于哪一方的呢?
私たちは、火の中に入る方だろうか、神様の元に置かれる方だろうか。
我们是投入火中的呢,还是要放到神那里去的呢?
それは分かっている。
这是知道的。
今日、私たちは、たとえ話の説明の話も聞いた。
今天,我们也听了比喻的说明。
イエスが弟子たちにだけ説明した話も聞いた。
也听了耶稣只向门徒说明的话。
そして、イエスがどうして弟子たちにはストレートに話すのかと言うと、弟子たちは、「天の国の秘密」を知っていいからだとイエスは言った。
耶稣为什么向门徒直说呢?因为耶稣说,“天国的秘密”只叫门徒知道。
弟子たちはそういう特別な立場。
门徒是如此的特别。
だから、私たちが、自分もイエスの弟子だと思うなら、私たちも良い麦。
因此,我们如果觉得自己是耶稣的门徒的话,我们也是麦子。
そして、だからこそ、イエスは今日、この話を聞かせてくださった。
正因为如此,耶稣今天让我们听这话语。
まだそこまでは思えないという人も中にはいるかもしれない。
另外,或许中间也有人觉得自己还没到这程度。
しかし、そうなる可能性があるから、ここまで聞かせてくださっている。
可是,因为有这种可能,所以让他听了。
私たちは皆、生まれた時から自分がイエスの弟子だと思っていたわけではない。
我们大家并不是一生下来就认为自己是耶稣的门徒的。
ただ、この話を聞いている人は、弟子になるように招かれていると言える。
不过可以说,听了这话的人,将要被呼召成为门徒。
一つ、分かりにくいところがあるとすると、27節の「僕たち」とは誰なのか。
有一处难理解的地方,27节的“仆人”是谁呢?
これも天使ということかもしれない。
这也可能是天使。
しかし、天使という言葉は、原文ではメッセンジャーという言葉。
可是,天使在原文中是传话者的意思。
神の言葉を人に伝えるメッセンジャー。
将神的话语传给人的传话者。
だから30節で、主人は天使に言いつけようと言っている。
所以30节说,主人要对天使说。
天使は神の言う通りにするだけ。
天使只是照神的话做。
しかし、27節の「僕たち」は主人に自分の考えを言っている。
可是,27节“仆人们”对主人说了自己的想法。
しかも、僕たちの考えと主人の考えは違う。
而且,仆人想的和主人想的不一样。
ということは、この「僕たち」は神様を主人にする神の僕であるクリスチャン、イエスの弟子が、神様に呼びかけて祈っていることをたとえたということだろう。
这也就是说,这“仆人”就是把耶稣当成主人的神的仆人基督徒、耶稣的门徒,向神呼求,祷告,是这样的比喻。
なかなか大胆な祈り。
非常大胆的祷告。
“那么,要去拔出来吗?”
この世界にいる悪い人を滅ぼしましょう、というような祈り。
要把这世上的坏人消灭掉,是这样的祷告。
そこまでは私たちは祈らないかもしれない。
目前为止我们可能还不会如此祷告。
しかし、誰か人のことを悪い人だと思うと、私たちはその人には近づかない。
可是,觉得谁是坏人的话,我们就不和此人接近。
それは、悪い人には、私の世界から出て行ってほしいということ。
这就是说,希望坏人从我们的世界出去。
そして、そうする時の私たちの気持ちは、「行って抜き集めておきましょうか」というのと同じくらい、はっきりした気持ち。
于是,这种时候我们的心情就和“去拔了吧”一样,很干脆的想法。
しかし、人間の考えと神の考えは違う。
可是,人的想法和神的不同。
「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。
“不必,恐怕薅稗子,连麦子也拔出来,容这两样一起长,等着收割。”
これは実際にそういうことがあるそう。
听说事实上真有这样的事。
毒麦は根が長くて強い。
稗子的根又长又厉害。
毒麦の根は周りの麦の根にしっかりからみつく。
和周围麦子的根紧紧缠在一起。
だから毒麦を抜くと、周りの麦も抜いてしまうことになる。
因此,如果拔稗子,周围的麦子也会一起拔出来。
今日の話を聞いている私たちは良い麦。
听今天的话语的我们是好麦。
しかし、私たちには、毒麦がからみついている。
可是,我们被稗子缠在一起。
私たちは苦しみの中にいる。
我们活在苦痛之中。
しかし、神がこの世界に苦しみがあるのを許しておられるのはなぜか。
可是,神为什么允许这世间有苦楚呢?
「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」。
“恐怕薅稗子,连麦子也拔出来。”
神は、一本の良い麦も失いたくない。
神不想失去一根麦子。
私たちに、失われてほしくない。
不想失去我们。
そして、私たちはその神を信頼してよい。
所以我们信靠这位神为好。
毒麦が現れてきた時、主人はそれが敵の仕業だと見抜いていた。
稗子出现的时候,主人看出这是敌人所为。
神に知られない所で起こることは何もない。
没有什么事能在神所不知晓的地方发生。
刈り入れの時にすべてふさわしく解決しよう。
收割的时候再把所有这些做适当地处理。
最後にどうなるかまで、すべて神の計画がある。
最后会怎样,一切都有神的计划。
私たちは苦しみの中にある。
我们活在痛苦之中。
しかし、安心して良い。
可是,安心就好。
すべてを分かっておられて、最後まですべて計画を立てておられる方が、畑の主人、この世界の主人。
知晓一切,直至最后都计划好了的那一位,是田地的主人,这世界的主人。
神の考えは私たちの考えとは違う。
神的想法与我们的想法不同。
しかし、私たちが失われないようにということを第一に考えてくださる方。
可是,他把不失去我们放在第一位来考虑。
その方を信頼したい。
希望大家信靠他。
私たちはイエスによって蒔かれた種。
我们是耶稣撒的种子。
成長して、いずれ、神の元に引き取られる。
渐渐长大,总有一天被带回到神那里去。
その約束を信じたい。
希望大家相信这约定。