今週の説教「あなたの近くに宝が」(新約聖書・マタイによる福音書13章44節から46節)

「あなたの近くに宝が」

 

マタイによる福音書1344節から46

 

44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

 

 

 

 

 

天の国をたとえた話。

 

天の国は畑に隠されている宝。

 

高価な真珠。

 

それを手に入れる。

 

手に入れることができる。

 

天の国は、私たちの手が届かない所にあるのではない。

 

自分たちが生きている範囲の中にある。

 

それを、何としてでも手に入れなさい。

 

 

 

ただ天の国は隠されている。

 

そこに天の国があるということは、誰にでも分かるわけではない。

 

そうだろう。

 

私たちが生きている範囲の中に天の国があるが、私たちは、ここに神様が生きて働いておられる、といつもいつも感じるわけではない。

 

「天」は聖書では「神」と同じ。

 

「国」は「支配」という言葉。

 

神様がすべてのものを支配しておられると聖書は言うが、それは、気を付けていなければ分からない。

 

むしろ、世界は神様の力よりも悪の力が支配しているように見える。

 

このすぐ前の所では、世界は神の畑だと言われていたが、畑には良い麦もあれば毒麦もあるという話だった。

 

神様の支配は気を付けていなければ分からない。

 

 

 

二日前の金曜日、私は、洗濯物を干していた。

 

ベランダに出て、すべての洗濯物を干し終わったところで、12か月の息子にベランダに出る窓の鍵をかけられてしまった。

 

しかも、鍵をかけた上で窓をロックされてしまった。

 

ベランダに締め出されてしまった。

 

ロックを外して鍵を開けるように息子に伝えるが、12か月だから伝わらない。

 

奥さんは仕事で家にいなかった。

 

ポケットに携帯電話が入っていた。

 

そして、洗濯物を干している時に、私はある人から電話をいただいていた。

 

その方は、先月の説教の動画を見てくださっていた。

 

そして、先月の礼拝の式次第が欲しいということだった。

 

私はその時、インターネットで送りますと返事をした。

 

でもその時その方は、なるべく早くに欲しいから、取りに行っていいかとおっしゃってくださった。

 

私は、すぐに送りますと返事をした。

 

でも、そのすぐ後に、私はベランダに締め出されてしまいました。

 

そこで私はその方に電話をした。

 

ポケットに携帯電話を入れていて良かった。

 

「すぐに送ると言ったんですが、送るのが難しくなりました」。

 

「やっぱり教会に来ていただいていいですか?」

 

来ていただいて、ベランダから鍵を投げて、受け取っていただいて、助けていただいた。

 

鍵もポケットに入っていた。

 

これはちょっと見ただけでは悪いことが起こったということになる。

 

しかしそこに、神様の支配が隠されていた。

 

 

 

私たちはそういうふうにして、時々、神様の支配を見つけ出すことがある。

 

今日の話で言うと、畑の中に埋まっている宝を掘り当てることがある。

 

この人は、宝を探していたわけではない。

 

畑仕事をしているところで、土の中に宝を見つけた。

 

神様の支配はそんなふうに、自分の思いとは関係なく見い出すことができる場合がある。

 

世の人はそれを偶然と言う。

 

私たちはそこに、神様の支配を感じる。

 

 

 

ただ、この話で大事なことは、宝を見つけ出したからと言って、それがすぐに自分のものになるわけではないということ。

 

この人は、持ち物を全部売ってこの畑を買った。

 

それで、宝は自分のものになった。

 

宝を自分のものにするために、持ち物を全部売った。

 

全てを捨てて、代わりに、宝を手に入れた。

 

 

 

これは、その次の話でも同じ。

 

真珠の商人が高価な真珠を一つ見つけると、持ち物を全部売ってその真珠を買う。

 

全てを捨てて、代わりに宝を手に入れた。

 

神様の支配は、それまで持っていたすべてを捨ててでも手に入れるべきもの。

 

どんなことをしてでも、必死になって手に入れるべきもの。

 

 

 

そしてそれは、私たちの手に届くところにある。

 

隠されている場合もあるが、畑仕事をする人の、畑の中にある。

 

または、真珠として普通に売られている場合もある。

 

「ユートピア」という言葉があって、それはギリシャ語で「どこにもない場所」という意味だが、天の国はそのようなものではない。

 

身近に見い出すことができる。

 

探そうと思っていなくても、畑の中に偶然見つける場合もあるし、一生懸命探していて、良い真珠を見つける場合もある。

 

とにかく、見つからないものではない。

 

 

 

そしてそれは、すべてを手放してでも手に入れるべきもの。

 

それまでに持っていたすべてを捨てると聞くと、そんなことができるかなあと思ってしまう。

 

しかし、考えてみてほしい。

 

畑を買って宝を手に入れた人の財産は減っているか。

 

今までに持っていたすべてよりも、天の国という宝の方が値打ちがあると知ったから、すべてを捨てて畑を買った。

 

財産は増えている。

 

その人の人生は前までよりも良くなった。

 

真珠も同じ。

 

この人は商人。

 

損をすることはしない。

 

今まで持っていたすべてのものよりも、その真珠に価値があると知ったから、真珠を買った。

 

損をしたわけではない。

 

天の国を手に入れると、前までよりも良くなる。

 

それも、それまでに持っていたすべてを捨てても構わないと思うくらい、良くなる。

 

だから、畑の宝を見つけた人は、喜んでいると書かれている。

 

我慢してそうするということではない。

 

喜んでそうする。

 

自分は神様のためにこんなに我慢している、こんなに犠牲を払っているというのが信仰ではない。

 

天の国が手に入るなら、誰に言われなくても、自分から喜んでそうする。

 

それは当然のこと。

 

神の支配と悪の支配、どちらがいいだろうか。

 

私たちはいつも、神の支配を選び取りたい。

 

喜んでそうしたい。

 

そして、そういう気持ちがあれば、神の支配は必ず手に入る。

 

私たちが喜びの中を、もっと豊かに生きていくことができるようにされる。

 

 

 

ただ、今日のたとえ話にはおかしなところがある。

 

畑仕事をしていた人は、人の畑で働いていた。

 

自分の土地を持っていない。

 

そういう人が人に雇われて働くことはあった。

 

しかし、この人、結局、畑を買うお金を持っていた。

 

土地を持っていない人だけれども、土地を買うお金があった。

 

土地を買うお金があるんだったら、最初から自分の土地を買わないだろうか。

 

 

 

真珠の商人はすべてを捨てて一つの真珠を買った。

 

しかし、真珠の商人がそんなことをするだろうか。

 

商人は真珠を買うと、それをもっと高い値段で他の人に売る。

 

真珠の商人は真珠を自分の手元にずっと置いておきたいわけではない。

 

真珠でお金儲けをしたいのが真珠の商人。

 

こんなことをする真珠の商人はいない。

 

 

 

つまり、今日イエス様は、天の国が身近にあると言いながら、でも、それを本気で手に入れようとする人はいない、それを手に入れるのは無理だと言っている。

 

そうかもしれない。

 

神様の支配が私たちに与えられるためにイエス様は何をしてくださったか。

 

命を投げ出してくださった。

 

つまり、畑の値段は神の子の命。

 

真珠の値段は神の子の命。

 

私たちに払えるはずはない。

 

ではどうして、イエス様はこんな話をしたのか。

 

イエス様が、ご自分の命を、すっかり売り払ってくださるからです。

 

十字架を見上げよう。

 

ここに、宝がある、真珠がある。

 

天の国がある。

 

私たちはもう、天の国を手に入れている。

 

それを喜ぶことが、私たちの務め。

 

そして、それを決して手放さないようにしよう。