
「イエスにつまづく人」
因耶稣跌倒的人
聖書・マタイによる福音書13章53節から58節
马太福音13章53-58节
53イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、54故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。55この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」57このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、58人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
耶稣说完了这些比喻,就离开那里,来到自己的家乡,在会堂里教训人,甚至他们都希奇,说:“这人从哪里有这等智慧和异能呢?这不是木匠的儿子吗?他母亲不是叫马利亚吗?他弟兄们不是叫雅各、约西、西门、犹大吗?他妹妹们不是都在我们这里吗?这人从哪里有这一切的事呢?”他们就厌弃他。耶稣对他们说:“大凡先知,除了本地本家之外,没有不被人尊敬的。”耶稣因为他们不信,就在那里不多行异能了。
イエスの故郷はナザレという町。
耶稣的故乡是叫做拿撒勒的地方。
ガリラヤ地方(イスラエル北部)にある。
在加利利地区(以色列北部)。
そこの会堂で教えた。
他在那里讲道。
人々は驚いた。
众人都惊奇。
このようなことは今までにもあった。
这样的事情现如今都有。
7章28節には今日の言葉とよく似た言葉がある。
7章28节的内容和今天的话语很相似。
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」。
“耶稣讲完了这些话,众人都希奇他的教训。”
どうして驚いたのかというと、その次の29節。
为什么希奇呢?看下面的29节。
「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。
“因为他教训他们,正像有权柄的人,不像他们的文士。”
人々は、律法学者の話はいつも聞いていた。
众人常听文士的讲道。
律法学者の話を聞くことには慣れていた。
已经习惯了听文士的。
こういうふうに聖書に書かれているから、こうしなさい、という教え方。
教导他们说,因为圣经是这样的写的,所以要这样做。
律法学者自身、当然、律法の下にある。
文士自己当然也是在律法之下。
しかしイエスは「権威ある者として」教えた。
可是耶稣“作为有权柄者”教导他们。
イエスは、「聖書にはこう書かれていて、律法学者はそれをこういうふうに教えているが、本当のところ、そこにある神の御心はこうだ」と教えた。
耶稣教导说,“圣经上是这样写着,文士也是这样教的,但事实上,神的心意是这样的。”
律法学者は文字に従うことを教えた。
文士照本宣科教。
それに対して、イエスは御心を教えた。
与此相对,耶稣教导他们神真正的心意。
イエスは神の御心を教えることができる。
耶稣可以教导他们神的心意。
そこにある権威。
这里有权柄。
人々は驚いた。
众人就希奇。
今日、ナザレの人たちも驚いている。
今天,拿撒勒人也希奇。
しかし、ナザレの人たちはイエスの話を聞いて、御心を思うようにされたか。
可是,拿撒勒人听了耶稣的话,认为那是神的心意吗?
57節に、「人々はイエスにつまづいた」とある。
57节写有“众人因耶稣而跌倒”。
どうして本当の信仰に入ることができなかったのか。
为什么不能接受真正的信仰呢?
人々は、同じことを繰り返し言っている。
众人反复说同样的话。
「どこから得たのだろう」。
“这人从哪里得的呢?”
原文には、「得た」という言葉はない。
原文中没有“得”这一词。
54節は「彼のこのような知恵と力はどこからだろう」。
54节“这人从哪里有这等智慧和异能呢?”
56節は「この人のこれらすべてはどこからだろう」。
56节,“这人从哪里有这一切的事呢?”
人々は、イエスの知恵と奇跡を行う力に驚いた。
众人希奇耶稣的智慧和异能。
しかし、イエスは自分たちと同じ村で育った人で、イエスのことは昔から知っていて、イエスの兄弟姉妹も皆、その村で普通に生活している。
可是,耶稣是和自己在同一个村里长大的,耶稣的情况以前就知道,他的兄弟姐妹也都在这村里正常地过日子。
だから、この人の特別な知恵と力は「どこからだろう」という気持ちになる。
所以会有,这人特别的智慧和大能“是从哪里来的呢?”这样的想法。
イエスは言った。
耶稣说:
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。
“大凡先知,除了本地本家之外,没有不被人尊敬的。”
預言者というのは、神から言葉を預かって、それを人に伝える人。
先知就是从神那里得话语,传达给世人的人。
神の御心を教えるイエスの働きも、預言者の働き。
传讲神心意的耶稣做的也是先知的工作。
しかし、「故郷、家族の間」でそれをするのは難しい。
可是,在“本地本家”做这事很难。
自分のことを昔から知っている人に神の言葉を伝えることは楽なことではない。
向那些从前就了解自己的人,传达神的话语并不是简单的事。
家族に伝道すること。
向家人传道。
昔の友人に伝道すること。
向以前的朋友传道。
きちんと聞いてもらえないと思っておいた方が良い。
他们不会诚心听的,事先有这心里准备比较好。
ナザレの人たちもここで、自分たちはイエスのことをよく知っていると言っている。
拿撒勒人在这里也说自己非常了解耶稣。
しかし、この人たちはイエスの何を知っていると言っているか。
可是,他们说知道耶稣的什么呢?
一人のナザレの人であったイエスのこと。
是作为拿撒勒人的耶稣。
イエスの、自分たちと同じ部分について。
是与自己有共同之处的耶稣。
それは、自分の頭の中にイエスを収めようとすること。
把耶稣局限在自己头脑中的印象。
だから、イエスが神の御心を教えたのに、神の子イエスに心を向けることができない。
所以,耶稣教导他们神的心意,他们却无法将心转向神子耶稣。
自分とずっと一緒にこの村で生活していたあのイエスがどこからそんな知恵と力を得たのか、と思ってしまう。
就想着,一直和自己一起在这村里生活过的那耶稣,是从哪里得的这等智慧和异能呢?
そして結局、イエスを信用することができない。
所以结果就是不相信耶稣。
ここでナザレの人たちは大きな失敗をしている。
这里拿撒勒人跌倒了。
イエスが伝えたのは神の御心。
耶稣传达神的心意。
神の御心についての話を聞いているのに、あの人は昔どうだったという話をしても仕方がない。
听了有关神心意的话语,却说那人以前怎样,这毫无用处。
それなのに、そんな話をしてしまう。
然而,却说这样的话。
人間は自分の頭の中に物事を収めたい。
人就是想要把对事物的认知局限在自己的头脑中。
そうしておけば安心。
如此便觉得安心。
聖書はそれが罪だというが、自分中心。
圣经说这是罪,以自我为中心。
しかし、神の御心は人間の頭に収まるものではない。
可是,神的心意不是可以局限在人的认知中的。
それなのに、ナザレの人たちは、イエスを自分の頭に納めようとしている。
然而,拿撒勒人却想把耶稣局限在自己的头脑中。
これは私たちにも言えることだが、神を理解しようとするなら、私たちは常識から出て行かなくてはならない。
这点也同样可以说给我们,要想了解神的话, 必须得从我们常有的认知中脱离出来。
私たちは常識に支配されていると言える。
我们可以说是被常识支配着。
しかし、その常識は正しいのか。
可是,常识就是正确的吗?
100年前の常識で、今でも通用する常識がどれくらいあるか。
100年前的常识,至今仍然通用的又有多少呢?
1861年に、フランス科学院は、「聖書を否定する科学的事実が51もある」という内容のパンフレットを出版した。
1861年法国科学院出版了内容为《否定圣经的51个科学事实》的小册子。
しかし、その後100年の間に、聖書を否定するはずの「科学的事実」の方が、一つ残らず、科学者自身の手によって否定されてしまった。
可是,之后100年间,本来否定圣经的“科学事实”一个不落地被科学家自己亲手否定了。
18世紀のフランスの哲学者にボルテールという人がいる。
18世纪的法国哲学家中有一位叫做伏尔泰的。
この人は、「100年後には、人々は聖書について、何も聞かなくなるだろう」と言った。
此人曾说“100年后,关于圣经,人们什么都不想听了吧。”
けれども 200年以上たった今も、世界中の人が聖書を読んでいる。
可是,200多年后的今天,全世界的人依然在读圣经。
ボルテールの住んでいた家は後に、ジュネーブ聖書協会の施設となって、聖書を広めるための場所になった。
伏尔泰所住的地方,后来作为日内瓦圣经协会的场所,成了推广圣经的地方。
科学者や哲学者でもそう。
科学家、哲学家尚且如此。
私たちが当たり前だと考えていることも、正しいと言えるものはほとんどないと考えるべき。
我们觉得理所当然的事情,可以认为是几乎没有称得上对的。
“大凡先知,除了本地本家之外,没有不被人尊敬的。”
これは、ナザレの人たちに対してだけ当てはまる言葉ではない。
这话并不只是对拿撒勒人适用。
実際、イエスが敬われなかったのはナザレだけではない。
实际上,耶稣不被尊敬不仅在拿撒勒。
いやそれどころか、最後には、十字架に付けられてしまう。
岂止不尊敬,最后被钉上了十字架。
イエスを受け入れない人はどこにでもいた。
不接受耶稣的人哪里都有。
自分中心で、自分の常識を乗り越えられない人は、いつでもどこでも、イエスを受け入れない。
以自我为中心,无法超脱自己认知的人,不管什么时候,什么地方都无法接受耶稣。
だからこそ、この言葉を私たちは新しく聞きたい。
正因此,希望我们大家重新聆听这话语。
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。
“大凡先知,除了本地本家之外,没有不被人尊敬的。”
この言葉は、私たちが自分の常識を乗り越えて、もっと神に近づくようにと私たちを励ましている。
这话是鼓励我们要超脱自己的常识认知,更亲近神。
そうするとき、私たちは預言者を敬う、つまり、神の言葉の恵みを受ける。
到那时,我们就会尊敬先知,也就是接受神话语的恩惠。
私たちにはどちらかしかない。
我们只能二选一。
神の言葉の恵みを受けるか、イエスを十字架に付けるか。
受神话语的恩惠,还是把耶稣钉上十字架。
今日の最後には、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とある。
今天最后的内容是“耶稣因为他们不信,就在那里不多行异能了。”
私たちが自分の考えにこだわっているところには、神の力は働かない。
我们局限在自己的思考中,神的大能就不显现。
それは逆に言うと、私たちが自分を乗り越えて神に近づく時には、もっと大きな神の恵みを受けるということ。
反而言之就是说,我们超越自我靠近神的时候,就能领受神更大的恩惠。
もっと大きな恵みをいただきたい。
想要领受更大的恩惠。
神は私たちの常識には収まらない。
神不在我们的日常认知中。
それは何も不安になることではない。
这不是什么令人不安的事情。
私たちの常識に収まらないほど大きな力を持っておられて、私たち大いに祝福してくださる。
神拥有我们的常识无法想像的那般大能,并赐予我们大大的祝福。
私たちは、自分の常識を超える祝福を期待していい。
我们超脱自己的认知期待祝福就好。
何しろ、ここで「奇跡」という言葉が遣われている。
何况这里用的是“奇迹”一词。
私たちは、「奇跡」を求めて良い。
我们可以求“奇迹”。