
「人の言葉と神の言葉②」
人的话和神的话之二
新約聖書・マタイによる福音書14章34節から15章20節
新约圣经马太福音14章34节到15章20节
34こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。35土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、36その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
他们过了海,来到革尼撒勒地方。那里的人一认出是耶稣,就打发人到周围地方去,把所有的病人带到他那里,只求耶稣准他们摸他的衣裳繸子,摸着的人就都好了。
1そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。2「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」3そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。4神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。5それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、6父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。7偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。8『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。9人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」10それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。11口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」12そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。13イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」15するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。16イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。18しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。20これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
那时,有法利赛人和文士从耶路撒冷来见耶稣,说:“你的门徒为什么犯古人的遗传呢?因为吃饭的时候,他们不洗手。”耶稣回答说:“你们为什么因着你们的遗传,犯神的诫命呢?神说:‘当孝敬父母’,又说:‘咒骂父母的,必治死他。’你们倒说:‘无论何人对父母说,我所当奉给你的,已经作了供献,他就可以不孝敬父母。’这就是你们藉着遗传,废了神的诫命。假冒为善的人哪!以赛亚指着你们说的预言是不错的。他说:‘这百姓用嘴唇尊敬我,心却远离我,他们将人的吩咐当作道理教导人,所以拜我也是枉然。’”耶稣就叫了众人来,对他们说:“你们要听,也要明白。入口的不能污秽人,出口的乃能污秽人。”当时,门徒进前来对他说;“法利赛人听见这话不服,你知道吗?”耶稣回到说:“凡栽种的物,若不是我天父栽种的,必要拔出来。任凭他们吧!他们是瞎眼领路的,若是瞎子领瞎子,两个人都要掉在坑里。”彼得对耶稣说:“请将这比喻讲给我们听。”耶稣说:“你们到如今还不明白吗?岂不知凡入口的,是运到肚子里,又落在茅厕里吗?唯独出口的,是从心里发出来的,这才污秽人。因为从心里发出来的,有恶念、凶杀、奸淫、苟合、偷盗、妄证、谤讟,这都是污秽人的。至于不洗手吃饭,那却不污秽人。”
イエスの人気はますます高まり、たくさんの人が連れて来られた。
耶稣的名气越来越大,很多人都被带来了。
人々は、イエスに癒しの力があると信じている。
众人相信耶稣有医治的大能。
信仰がある。
因为他们有信仰。
だから、服に触っただけで癒される。
所以只要碰一下衣服就能治愈。
しかし、ユダヤ教の先生たちは、イエスに人気があるのが許せない。
可是,犹太教的老师们,不能容忍耶稣受追捧。
それで、わざわざエルサレムからやってきて、イエスを攻撃しようとする。
于是,特地从耶路撒冷赶来,想要攻击耶稣。
あなたは昔の人の言い伝えを破っている、と批判する。
批判他说,你打破了古人的传统。
食事の前に手を洗う、というのは昔からのルールだった。
饭前洗手是一直以来的规矩。
イエスは答えた。
耶稣回答说:
「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」。
“你们为什么因着你们的遗传,犯神的诫命呢?”
ユダヤ教の先生たちは「昔の人の言い伝え」と言ったのに、イエスは、「自分の言い伝え」と言っている。
犹太教的老师说是“古人流传下来的”, 而耶稣却说是“你们自己传下来的。”
それはただのあなたの考えだ。
这只是你自己的认定。
あなたは、あなたの考えで、神の掟(ルール)を破っている。
你因着自己的认定,破了神的诫命。
神は父母を敬えと言っているのに、聖書にはそのような言葉があるのに、言い伝えの通りにするんだったら、神の言葉を無視してもいい、とあなたたちは勝手に言っている。
神说要孝敬父母,圣经上有这样的话,你们却自说自话,说只要按照所传的去做,就可以无视神的话语。
「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい」。
“无论何人对父母说,我所当奉给你的,已经作了供献,他就可以不孝敬父母。”
人間の言葉を神の言葉よりも上にしている。
这是把人的话放于神的话之上。
ユダヤ教の先生たちとしては、これについてよく考えたつもりなのだろう。
作为犹太教的老师,有好好考虑过这点吗。
父母よりも神の方が上なのだから、何かを神にささげるのなら、父母には差し上げなくて良い、という考え。
相比父母,神处于高位,所以认为东西供给了神的话就不用再奉给父母了。
そういう考え方をするのなら、それを認めるしかない。
这样想的话,只能认可了。
両方にささげることができないのなら、神に、ということ。
无法两方都供奉的话,就献给神。
しかし、この考え方はどうなのか。
可是,这想法如何呢?
神の言葉があって、父母を敬えと言っている。
神说要孝敬父母。
しかしそこで、父母に差し上げるものを神に差し上げると言う人がいるかもしれない。
可是在这里或许有人会说,把献给父母的东西献给神。
そうなったら、それは認めよう。
这样的话就认可了吧。
父母には差し上げなくて良い。
不奉给父母也可以。
つまり、ユダヤ教の先生たちは、こういう場合にはどうするのか、また別の場合にはどうするのか、とわざわざいろいろなことを考えて、自分の言い伝えをたくさん作っていった。
也就是说,犹太教的老师们,这种情况如何行,另外的情况怎么做,各种情况都考虑了,编了很多种说法。
言葉にこだわっている。
局限于言辞。
文字にこだわっている。
局限于文字。
文字を守ろうとしている。
守着字面意思。
父母を敬えという言葉にある神の御心は気にしない。
不在意说要孝敬父母的神的心意。
どうして神がそう言ったのかは考えない。
不考虑神为什么要这样说。
その言葉を守れているか、破っていないか、それだけを気にしている。
只在意是遵守了呢,还是打破了。
心は自分にだけ向いている。
心只向着自己。
信仰があるとは言っても、自分のための信仰。
虽说有信仰,却是为了自己的信仰。
だからイエスはこの人たちのことを、7節で「偽善者」と言う。
因此耶稣在第7节说这些人是“伪善者”。
そして、旧約聖書のイザヤ書の言葉を取り上げる。
并且,引用旧约以赛亚书的话语。
神から心が離れていて、人間の教えに従っている。
心远离了神,遵从人的教诲。
そして、言う。
还说:
「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。
“你们要听,也要明白。入口的不能污秽人,出口的乃污秽人。”
ユダヤ教の人々は食事の前に手を洗った。
犹太教的人在吃饭前洗手。
手は、この世で多くの仕事をする。
在这世上,手要做很多事。
この世に一番触れるのが手。
接触世界最多的是手。
その手を清めてから食事をすることで、この世の汚れが体に入らないようにする。
把手洁净后再吃饭,是为了不把世间的污秽带入身体。
しかし、イエスは言う。
可是,耶稣说:
汚れは外から入ってくるのではない。
污秽不是从外面进来的。
口から出て来る人の言葉が人を汚す。
从口而出的话才污秽人。
それが本当の所なんだ。
这是真的。
ユダヤ教の先生たちは本当に大切なことを考えていない。
犹太教的老师们真的没有思考重要的东西。
文字を守っていれば、自分は清いと考えている。
认为只要照着字面意思,自己就洁净了。
その清い自分に、汚れが外から入ってくる。
污秽会从外面进入到洁净的自己。
そうならないように手を洗う。
为了不让污秽进入所以洗手。
しかし、聖書は何と言っているか。
可是,圣经是怎么说的呢?
人間の心には罪がある。
人的里面有罪孽。
だから、イエスは言う。
所以耶稣说:
自分が人を汚さないように気を付けなさい。
要注意不要让自己去污秽了他人。
そのことが、16節からの所では、もっと詳しく言われている。
这一点在16节有更详细的叙述。
ユダヤ教の先生たちは、自分が汚されることを心配していたが、人が本当に心配しなければならないのは、自分が人を汚していないかどうか。
犹太教的老师们担心自己不要被污秽了,但是人真正要担心的应该是自己不去污秽他人,不是吗?
しかし、ファリサイ派の人たちはイエスにつまづいた(12節)。
可是,法利赛人给耶稣使绊子。(12节)
これは、イエスの話を聞いて怒ったということ。
这是因为他们听了耶稣的话生气了。
この人たちは、自分は正しいと思い込んでいる。
这些人认定自己是对的。
イエスの言葉を聞いても、自分に当てはめて考えたりはしない。
即使听了耶稣的话,也不认为说的是他们。
それについてイエスは言う。
对此耶稣说:
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」。
“凡栽种的物,若不是我天父栽种的,必要拔出来。任凭他们吧!他们是瞎眼领路的,若是瞎子领瞎子,两个人都要掉在坑里。”
ユダヤ教の先生たちがやっていることは、見えない人が見えない人の道案内をするようなものだ。
犹太教老师所行的,就如瞎子给瞎子领路一般。
ユダヤ教の先生たちは見えていない。
他们看不到东西。
神の御心が見えていない。
看不到神的心意。
そして、ユダヤ教の先生たちが教えている多くの人たちも、見えていない。
而且他们所教的大部分人,也看不见。
そしてここでイエスは、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と言っている。
耶稣在这里还说:“凡栽种的物,若不是我天父栽种的,必要拔出来。”
イエスは、ユダヤ教の先生たちのことも、その先生たちに教えられている人たちのことも、天の父が植えた木ではないと言っている。
耶稣说犹太教的老师以及他们所教的学生,都不是天父栽种的物。
聖書の言葉、神の言葉を教えているのに、教えられているのに、大事なことを見ていなくて、表面的なことにこだわっている。
圣经的话语、神的话语,也教也学,却看不见重要的东西,只拘泥于表面的东西。
神が植えた木ではないから、そうなってしまう。
因为不是神栽种的,所以如此。
それは、途中で間違ってしまったとか、そういうことではない。
不是说中途误入歧途了。
私たちも、私たちが御心に適っているのかどうかは、私たちが努力して正しい道を行こうとしているのかどうかで決まるのではない。
我们是否合神心意,不是由我们是否努力走义路来决定的。
むしろ、ファリサイ派の人たちは、自分が努力して自分で正しい道を行こうとしていたのに、間違ってしまった。
法利赛人靠自己努力走正道,然而却走错了。
自分で頑張ろうとするところに、人間の言い伝えが生まれてきてしまう。
靠自己努力去行,就滋生了各种人的传言。
私たちが正しいかどうかは、私たちの側では決まらない。
我们是否为义,不是由我们来决定的。
神の側で決まる。
是由神来决定的。
神が私たちを植えてくださったのかどうかで決まる。
由是否是神栽种的来决定。
神が植えてくださらなかったのなら、ファリサイ派の人たちと同じことが起こる。
如果不是神栽种的,就会和法利赛人一样。
イエスの話を聞いても、悔い改めない。
即使听了耶稣的话,也不悔改。
それどころか、自分は正しいのにダメだと言われた、と怒ってしまう。
岂止如此,认为自己是对的,被人说不行就生气。
人間は間違うもの。
人就是会犯错。
私たちだって間違うことはある。
我们也会有错。
ただ、イエスの言葉を聞いた時に、悔い改めることができるかどうか。
区别就是,听了耶稣的话,能否悔改。
ファリサイ派の人はそれが出来ない。
法利赛人这点做不到。
そしてそれは、ファリサイ派の人に努力が足りない、理解力が足りないということではなく、神様が植えた木ではないから、そうなってしまう。
而这点并不是因为法利赛人努力不够,理解力不够,而是因为不是神栽种的,才会如此。
そういうふうにしかならない。
只能如此。
木は自分では変われない。
树不能自己改变。
ただ、自分がずっと守って大事にしてきた自分の言い伝え、自分の考えというのは誰にでもある。
谁都有自己历来信守的,看重的,自己的意见,想法。
そしてもちろん、その全てが間違っているわけでもない。
自然也不是全都错。
自分が正しいと思っていて、御心に適っていることというのもあるはず。
肯定有自己觉得正确的,也合神心意的。
大事なことは、自分が正しいと思ってきたことだけれども、聖書の言葉、神の言葉とは何か違うということに気づいた時、悔い改めることができるかどうか。
重要的是,认为自己是对的,但是发现和圣经话语,神的话语相违的时候,能否悔改。
自分はこのことについては、表面的なことを大事にして、神の御心を考えてこなかった。
就这点,自己只看重了表面,没有去思考神的心意。
そういう部分は誰にでもある。
这种事谁都有。
ただそれは、私たちもファリサイ派だった、神の植えた木ではなかったということではない。
不过这并不是说我们就是法利赛派,不是神所栽种的。
自分はこのことについては、表面的なことを大事にして、神の御心を考えてこなかった、と気づくことができるということは、私たちが神の植えた木なんだという証拠。
能意识到自己过于重视表面,没有考虑到神的心意,这就是证明,证明我们是神所栽种的。
神の植えた木でないのなら、自分では気づかない。
不是神所栽种的,自己是意识不到的。
自分は正しいとしか思わない。
只会认为自己是对的。
人から言われると怒り出す。
一被人说就生气。
だから、ここのところで神の御心を考えていなかったと気づくことがあったら、喜んでほしい。
因此,如果你能意识到没有考虑到神的心意这一点的话,你要欢喜。
あなたは、神の植えた木です。
你是神所栽种的。
神が植えた木だから、神の言葉に反応する。
因为是神所栽种的,所以对神的话语会有所反应。
そしてイエスは今も、神の言葉で手入れをしてくださっている、神の大事な木。
并且,耶稣今天也用神的话语在对神宝贵的树木进行修剪。