
説教音声↓
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新約聖書・マタイによる福音書16章24節から28節
马太福音16章24-28节
24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
于是,耶稣对门徒说:“若有人要跟从我,就当舍己,背起他的十字架,来跟从我。因为凡要救自己生命的,必丧掉生命;凡为我丧掉生命的,必得着生命。人若赚得全世界,赔上自己的生命,有什么益处呢?人还能拿什么换生命呢?人子要在他父的荣耀里,同着众使者降临,那时候,他要照各人的行为报应各人。我实在告诉你们:站在这里的,有人在没尝死味以前,必看见人子降临在他的国里。”
イエスについて来たい者はどうするのが正しいのか。
想要跟从耶稣的人该怎么做才对呢?
今日の話はこのすぐ前の話とつながっている。
今天的内容紧接着前面的。
このすぐ前の話で、イエスはペトロに言った。
就在这之前,耶稣对彼得说:
「サタン、引き下がれ」。
“撒但,退下。”
ペトロは悪魔ではない。
彼得不是魔鬼。
しかし、ペトロはイエスを止めようとした。
可是,彼得想要阻止耶稣。
イエスが十字架の話をしたから。
因为耶稣说了十字架的事。
そんな話はしないでください。
彼得让耶稣不要说。
だから、サタンだと言われる。
因此说他是撒但。
サタンとは、「逆らう者」という意味の言葉。
撒但是“背弃者”的意思。
神に逆らう者。
背弃神的人。
ペトロはイエスに逆らっている。
彼得不听耶稣。
そのペトロに、「引き下がれ」。
所以对彼得说“退下”。
これは原文では、「退け、私の後ろに」という言葉。
在原文中,这里是“退我后边去”。
イエスの弟子とは何か。
何为耶稣的门徒?
イエスの後からついて来る者。
是跟从耶稣的人。
では、イエスの後からついて来るとはどういうことか。
那么,跟从耶稣是指什么呢?
それが今日、話されていること。
这就是今天要说的。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
“若有人要跟从我,就当舍己,背起他的十字架,来跟从我。”
ここだけ読むと、大変なことになりそうな感じ。
只读这里的话,会觉得似乎很困难。
しかし、「自分の十字架を背負う」とはどういうことか。
可是,“背起自己的十字架”是什么意思呢?
十字架は罪人の命を奪うための道具。
十字架是夺取罪人性命的刑具。
そして、この時代、死刑にされる人は、自分の十字架を背負って歩かされた。
而且,那个时代,执行死刑的人要自己背着十字架走。
十字架を背負って歩く人は、自分がこれから死ぬということを知っている。
背起十字架走的人知道自己要赴死了。
それは、私たちも同じ。
这点我们也是如此。
自分がいつかは死ぬということを知っている。
我们知道自己总有一天会死。
ただ、聖書は、人が死ぬのは罪のためだと言っている。
不过圣经上说,人死是因为罪。
聖書では、罪に対する罰が、死。
圣经上说对罪的刑罚就是死。
だから、「自分の十字架を背負いなさい」というのは、自分が十字架にかけられる罪人なんだと自覚しなさい、ということ。
所以,“背起自己的十字架”,是指要认识到自己是该被钉十字架的罪人。
自分が十字架にかけられる罪人だと分かった上で、イエスについて行く、ということ。
明白了自己是该被钉十字架的罪人后,再来跟从耶稣。
そうなると、結局私たちは死ぬことになるのか、それではイエスについて行ってもついて行かなくても同じではないかと思われるが、そうではない。
这样一来,反正结果我们都要死,那么就会觉得跟不跟耶稣都一样,其实不是。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。
“凡要救自己生命的,必要丧掉生命;凡为我丧掉生命的,必得着生命。”
イエスが人を招くのは、私たちが命を得るため。
耶稣呼召人,是为了让我们得着生命。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」。
“凡要救自己生命的,必要丧掉生命。”
私たちは、自分の命を救いたいと思っている。
我们想着救自己的性命。
自分の命を自分で救いたいと思っている。
想自己来救自己的性命。
果たして、そうだろうか。
结果,真的可以吗?
私たちにはあまり自覚がない。
我们不太有觉悟。
私たちは、自分がいつか死ぬことを知っている。
我们知道自己总有一天要死。
しかし、その私たちにイエスは言う。
可是,耶稣对我们说:
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。
“人若赚得全世界,赔上自己的生命,有什么益处呢?”
人は、何かを手に入れることで、自分の命を自分で救おうとしているということ。
人想要通过得到什么来救自己。
イエスの目には私たちはそう見えている。
在耶稣眼里我们是这样的。
お金を得ようとしている、地位を得ようとしている、名誉を得ようとしている。
想要赚钱,想要获得地位、声誉。
少しでも多く、得ようとしている。
想要得越多越好。
しかし、私たちは、それが自分の命を救うこととつながっているとは思っていない。
但是,我们并不认为这与拯救自己的生命相联系。
ただ、本当のところはどうだろうか。
那么,事实是什么呢?
人間は、自分に足りない所があると自覚した時、欠けているところがあると自覚した時、別のところでものすごく頑張るということがある。
人在意识到自己的不足,意识到自己有缺陷的时候,就会在其它方面拼命努力。
ある人から聞いた話。
从一个人那里听到的故事。
その人が学生時代に、特別に優秀な学生がいた。
那人在学生时代是个特别优秀的学生。
その学生は、体にハンデがあった。
这位学生身体有缺陷。
背骨が大きく曲がっていた。
脊柱弯曲得很厉害。
しかし、頭はこんな人がいるのかというくらい優秀だった。
可是,大脑却是难以置信地聪明。
足りない所、欠けた所があるから、他のところに余計に心を向けるということがある。
因为有不足,有缺陷,在其它地方就格外用心。
イエスは私たちのことを、そういうふうに見ている。
耶稣就是如此看待我们的。
私たちは、自分がいつか死ぬことを知っている。
我们知道自己早晚都会死。
自分が確かなものではない、完全なものではないと思っている。
认为自己不可靠,不完全。
だから、何とかしてそれを代わりのもので埋め合わせようとして、余計に何かを得ようとする。
因此,无论如何想要找个替代的东西来弥补,于是就过于想拥有其它的东西。
しかし、そんなことをしても仕方がないとイエスは見ている。
可是在耶稣看来,即便这样做也无济于事。
それが、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」ということ。
这就是“凡要救自己生命的,必丧掉生命。”
だから、イエスは言う。
因此,耶稣说:
「自分を捨てなさい」。
“要舍己”。
その「自分」というのは、代わりのものを手に入れて納得しようとする自分。
这个“自己”指的是想要用替代品来弥补的那个自己。
そうではなく、「わたしのために命を失いなさい」。
不是这样,“要为我丧掉生命”。
それは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということ。
这是指“当舍己,背起十字架,来跟从我”。
私たちは、私たちは、自分の命を買い戻すのに、代価は支払えない。
我们想要赎回自己的生命,却不想付出代价。
全世界を手に入れてもそれは無理。
即使拥有全世界也没用。
しかし、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うなら、イエスが代価を支払ってくださる。
可是,如果舍己,背起自己的十字架,跟从耶稣的话,耶稣就会为我们付代价。
それがイエスの十字架。
这就是耶稣的十字架。
全世界でも命の代価にはならない。
即使是整个世界也不能作为生命的代价。
しかし、神の子の命なら、代価になる。
可是,神子的生命可以作为代价。
十字架は、神の子が私たちのために代価を支払ってくださったということ。
十字架是神子为我们所付的代价。
それも、私たちが願ったわけではないのに、そうしてくださった。
这虽然不是我们要求的,他却这么做了。
どうしてそこまでしてくださるのか。
为什么做到这地步呢?
私たちは、一人一人が全世界よりも値打ちがある、とイエスは言っている。
耶稣说我们每一个人相比世界,更为宝贵。
私たちの中の一人でも、永遠に失われてしまうことがあるとしたら、全世界が失われなかったとしても、意味がない。
我们中间哪怕一个人,如果永远地失去了,那么就算没有失去全世界,也是毫无意义的。
イエスにとっては。
对耶稣而言是这样的。
全世界のすべての資産は日本円にして2京円とも言われている。
据说全世界所有的资产是2京日元。
私たちは、それよりも価値がある。
与此相比,我们更有价值。
いや、全世界の資産がいくらなのかは変化する。
全世界的资产有多少是会变化的。
増えることもある。
可能会增长。
しかし、いくら増えたとしても、私たち一人の方が神の目には価値がある。
可是,在神的眼中,即使再增长,我们中间的每一个人都要更为有价值。
だからイエスは進んで命を投げ出してくださる。
所以,耶稣接下来要献出生命。
そして、その命が失われないように、私に従いなさいと言う。
而且还说,为了不丧失生命,来跟从我。
あなたは、命の代わりになるものを求める必要はない。
你没有必要去追求生命的替代品。
私が、あなたの代わりになる。
我来代替你。
私は命を捨てるけれども、あなたは生きていきなさい。
我虽然舍了性命,你要活下去。
それは、世の終わりに明らかになる。
这点在世界终了的时候就会明了。
全ての造られたものには終わりがある。
一切所造的都将终结。
この世にも、いつか、終わりの時は来る。
世界的末了,终会到来。
その時、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。
那时,“人子要在他父的荣耀里,同着众使者降临,那时候,他要照个人的行为报应各人。”
「行い」とあるが、私たちが自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことができたかどうかが、その時問われる。
这里的“行为”,就是说,我们有没有舍己,背起自己的十字架跟从耶稣,到那时要追究。
続けて、不思議なことが言われている。
接下来说了令人费解的话。
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。
“我实在告诉你们:站在这里的,有人在没尝死味以前,必看见人子降临在他的国里。”
「ここに一緒にいる人々」とは、イエスの弟子たちのこと。
“一起在这里的人”,是指耶稣的门徒。
弟子たちの中には、イエスが神の国を来たらせるのを、生きている内に見る人がいる。
门徒中间,有人会在活着的时候见到耶稣使神的国降临。
しかし、弟子たちはみんなもうこの世にはいない。
可是,门徒都已经不在这世上了。
そして、まだ、神の国は来ていない。
然而,神的国度还没有降临。
この世界はまだ、この通り、ある。
这世界还依然如此。
ということはこれは、世の終わりに神の国が実現する時のことを言っているわけではない。
这到底是什么意思?并不是在说世界的终了就是神的国度降临的时候。
これは、このすぐ後の場面のことを言っているのだろう。
说的是就这之后的内容。
このすぐ後、イエスが、三人の弟子たちだけを連れて、山に登った。
之后,耶稣只带了三个门徒上了山。
そうすると、イエスに神の栄光が現れた。
于是,神的荣光显现在耶稣身上。
イエスの顔が太陽のように輝き、服も光のように白くなった。
耶稣的脸面明亮如日头,衣裳洁白如光。
モーセとエリヤという昔の預言者も現れた。
以前的先知摩西、以利亚也显现了。
弟子たちも、光り輝く雲に覆われた。
门徒也被光明的云彩遮住了。
これはもう、この世のことではない。
这已经不是这世界的光景了。
神の国が現れたのを見た。
看到了神国度的降临。
しかし、28節のイエスの言い方は分かりにくい。
可是,28节,耶稣的这种说法有点难以理解。
こんな言い方をしたら、弟子たちの中には、世の終わりが来るまでずっと生きている人がいる、と言っているように聞こえてしまう。
这种说法听上去好像是在说,门徒中有人会一直活到世界末日到来。
ただ、こう言われた弟子たちはどう感じたか。
只是,被这样说的门徒会是什么感觉呢?
世の終わりが近いと思ったはず。
一定觉得世界末日近了。
自分が生きている間に、世の終わりが来るかもしれない。
在自己还活着的时候,世界末日可能会来到。
だとしたら弟子たちは決心したはず。
那样的话,门徒肯定会下定决心。
自分を捨てて、イエスに従おう。
舍己,跟从耶稣。
イエスは、私たちにも、そう決心してもらいたい。
耶稣也希望我们能有这样的决心。
決心して、従ってもらいたい。
希望我们下定决定跟从耶稣。
自分を捨ててイエスに従う、と聞くと、不自由に感じるかもしれない。
听到说舍己跟从耶稣,或许会觉得没有自由。
しんどいことのように思うかもしれない。
或许会认为很累。
そうではない。
不是这样的。
それが本当に正しい生き方。
这才是真正的正确的生活方式。
代わりに何かを得ようとするのは間違っている。
想要拥有可以替代的,那才是错的。
だから、イエスは私たちに、今までの生き方をやめて、イエスに従うことを決心してもらいたい。
因此,耶稣希望我们放下一直以来的生活方式,下决心跟从耶稣。
私たちは、希望を持っていい。
我们大家要保有希望。
十字架と復活を予告しておいて、実際にその通りにしてくださった方が、私たちに、神の前での永遠の命を約束してくださっている。
预言十字架和复活,并且真这么做的那一位,约定了会赐予我们在神面前的永生的生命。
十字架と復活をしてくださった方が、救いについてだけ嘘をついているということはない。
钉十字架并复活的那一位,不会只在救赎这一点上撒谎。
神の栄光が私たちを照らす時が、いつか必ずやって来る。
神的荣光照亮我们的时候一定会来到。