
新約聖書・ヨハネによる福音書13章34節
新约圣经・约翰福音13章34节
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
我赐给你们一条新命令,乃是叫你们彼此相爱。我怎样爱你们,你们也要怎样相爱。
一年の初めに聖書のどこを読むか。
新年伊始,圣经读哪里呢?
イエス・キリストの唯一の戒め。
耶稣基督唯一的诫命。
これだけを守りなさい。
只要遵守这一点。
掟というのは人間の世の中、どこに行ってもある。
规则世间随处都有。
特にこの時代には掟というのが本当にたくさんあった。
特别是当时那个时代,规定真的非常多。
一週間に一日は仕事をしてはいけない。
一周有一天不准工作。
その日は、1キロくらいまでしか歩いてはいけない。
那天,只能在一公里以内行走。
カバンをもってもいけない。
不可以拿包。
手に仕事をさせることになる。
拿了就是让手工作了。
とにかく、仕事をしてはいけない。
总之,不能工作。
その日は一日静かに心を神に向ける。
那天要一整天静下心来面对神。
けれども、心を神に向けるどころではない。
可是,岂能一心向着神。
その日にしてはいけないことは630もあった。
那天不能做的事有那么多。
それをいちいち気にしていなくてはいけない。
必须一一注意。
ただ、これは、私たちも同じではないか。
不过,这点我们也一样,不是吗?
私たちも、家庭の中で、地域で、職場で、いろいろな掟に取り囲まれている。
在家庭中,住宅区,职场上,我们被各种各样的规则包围着。
特に現代の日本では、文章になっていない掟が多い。
特别是现在的日本,不成文的规定也很多。
何となく、そうしなければいけないことになっている。
总之,就变成了必须要这样做。
そして、それを守らなければ、文句を言われる。
而且,不遵守的话,就会被抱怨。
「空気を読め」。
“读空气”。
「空気」が私たちを取り囲んでいる。
“空气”包围着我们。
空気から逃げることはできない。
不能逃出空气的笼罩。
嫌でも気にしていなければならない。
再讨厌也必须要注意。
それが掟。
这就是规则。
キリストも弟子たちに掟を与えた。
基督也给门徒立了规矩。
しかしそれは、この一つだけだった。
可是,只有一条。
そして、面白い話がある。
有个有意思的故事。
この福音書を書いたヨハネは、74才か84才まで生きたが、この人は年をとってからは、「互いに愛し合いなさい」ということしか言わなくなったらしい。
写这本福音书的约翰,活到74岁还是84岁,他上了年纪以后,听说只会说“要彼此相爱”。
そこで、教会の若い人がヨハネ先生に質問した。
于是,教会的年轻人问约翰:
「どうして、『互いに愛し合いなさい』ということしか言わないんですか?」。
“为什么只说‘要彼此相爱’呢?
「それだけで完全なのだ」。
“只这就够了”。
この掟だけ守れば、他のことも全部大丈夫なんだ。
只要遵守这诫命,其它的全都不重要了。
キリストは一つだけ、掟を与えた。
基督只定了一条规则。
弟子のヨハネは、本当にそれがすべてだという心に至った。
门徒约翰,真的是从内心里觉得这是全部。
しかし、この新しい掟は、本当に新しいのか。
可是,这条新命令,真的是新的吗?
旧約聖書にも、自分自身を愛するように隣人を愛せと書かれている。
旧约中也写着要爱人如己。
どうしてこの掟が「新しい掟」なのか。
为什么这规定是“新命令”呢?
イエスの掟は、「互いに」愛し合いなさい。
耶稣的命令是要“彼此”相爱。
愛しなさい、ではない。
不是要爱。
愛し合いなさい。
而是要彼此相爱。
片方が、ではなく、お互いに。
不是单方面的,是互相的。
この点で、新しい。
这一点是新的。
それだけでなく、「わたしがあなたがたを愛したように」。
不只是这点,“要像我爱你们那样”。
イエスが愛したように。
要像耶稣那样去爱。
イエスがしてくださったのと同じように。
和耶稣所做的一样。
イエスが模範を示した。
耶稣作了示范。
この点でも、新しい。
这点也是新的。
では、イエスはどのように弟子を愛したか。
那么,耶稣是怎样爱门徒的呢?
この場面のすぐ前の場面で、イエスは弟子の足を洗う。
就在这内容的前面,耶稣为门徒洗脚。
そして、そのことが、「弟子たちを愛して、限りなく愛し抜かれた」と書かれている。
就这事,圣经写到“爱门徒,就爱他们爱到底”。
相手の足を洗うことが、愛すること。
洗对方的脚就是爱。
足を洗うとはどういうことか。
洗脚是怎么一回事呢?
この時代の道は土の道。
当时的路是泥路。
そこをサンダルで歩いた。
人们穿拖鞋走路。
外を歩くと足が汚れる。
一走到外面脚就脏了。
だから、家に帰ってきて最初にすることは、自分の足を自分で洗うこと。
因此,回家第一件做的事就是洗自己的脚。
しかし、イエスは、人の足を洗った。
可是,耶稣洗别人的脚。
自分で洗いなさいと言ったわけではない。
没说要自己洗。
何も言われていないのに、弟子の足を洗った。
什么都没有说,就为门徒洗脚。
実は、自分の足を自分で洗わない人も、この時代にはいた。
事实上,当时也有不洗自己脚的人。
位の高い人は、自分の家の奴隷に自分の足を洗わせた。
地位高的人让自己家里的奴隶洗自己的脚。
つまり、イエスは、ご自分から相手の奴隷のようになって、相手の足を洗った。
就是说,耶稣自己要像奴隶那样,为对方洗脚。
つまりこれは、身を低くして、相手に仕えなさいということ。
也就是说,降低自己的身份,服侍对方。
しかし、この時、イエスも弟子たちも、家の中にいた。
可是当时,耶稣和门徒都在家里。
弟子たちは、家の中に入る時、自分で自分の足を洗ったはず。
门徒进家门时,肯定自己洗了脚。
どうして足を洗うのか。
为什么又洗脚呢?
イエスはこの時、「すでに体を洗った者は全身清いのだから、足だけ洗えば良い」と言われた。
耶稣当时说:“凡洗过澡的人,只要把脚一洗,全身就干净了。”
「すでに体を洗った」というのは、この日はお祭りの前の日で、お祭りの前には水に浸かって体を清めることになっていた。
说“已经洗过澡了”,是因为那天是节日的前一天,节前泡在水里把身体洁净过了。
清めるというのは、罪から清めるということ。
洁净是指从罪里洁净出来。
つまり、イエスは、足が土で汚れているのを洗ったのではなく、弟子の罪を洗い清めた。
也就是说,耶稣不是洗被土弄脏的脚,是洗净门徒的罪。
一度全身が清められても、足元から罪が入ってくるということはある。
土の地面をサンダルで歩くと、足が汚れてしまうように、この世で生きる中で、足元から罪が入ってくるということはある。
如同穿着拖鞋在泥地上一走,脚就弄脏了一般,活在这世上,罪就会从脚底渗进来。
イエスはそれを清めた。
耶稣要洗净这罪。
そして、これが、イエスにとって愛するということ。
而这对耶稣来说就是爱。
イエスが言う愛は、私たちが言う愛とは違う。
耶稣所说的爱和我们所说的爱不同。
相手の罪を自分が引き受けるということ。
是指将对方的罪由自己来领受。
私たちは、相手の罪を見つけると、それを批判するということがある。
我们看见对方的罪,就要批判。
あるいは、我慢するということがある。
或者忍受。
イエスは、相手の罪を引き受けて、相手を清めた。
耶稣接受对方的罪,洁净对方。
そして、言う。
并且说:
「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。
“你们也当彼此洗脚”。
これは簡単なことではない。
这不是简单的事。
私たち自身、罪を批判されてきたし、人の罪を批判してきた。
我们自己被人批判有罪,也批判别人有罪。
あるいは、相手の罪を我慢してきたし、自分の罪を人に我慢させてきた。
或者说忍受他人的罪,也让他人忍受自己的罪。
そうではなく、罪を清める。
不是这样,是洗净罪。
お互いに。
互相。
そうすることができる、とイエスは言っている。
耶稣说,可以如此行。
具体的にどうすればいいのか。
具体怎么做呢?
こういう話を聞いたことがある。
听过这样的故事。
ディズニーランドに、おじいさんとお母さんと小さい子どもの三人が来ていた。
爷爷、妈妈和小孩三人来到迪士尼。
お母さんが離れたところで、小さい子どもが手に持っていたポップコーンの箱を落としてしまった。
妈妈离开的时候,小孩把手里拿的爆米花盒掉了。
箱が転がって、ポップコーンが散らばる。
盒子翻了,爆米花散了一地。
おじいさんは、少し反応が遅くなっていて、驚いているが、なかなか手が出せない。
爷爷反应稍微慢了点,光顾着吃惊了,没有伸手。
子どももびっくりして泣き出した。
孩子也吓得哭了出来。
そこに、スタッフがやって来た。
工作人员来到他们那边。
スタッフは笑顔で、大丈夫ですよ、と言いながら、すぐにほうきとちりとりでポップコーンをきれいに片付けた。
笑着说,没有关系的,说着立即用簸箕和扫帚把爆米花弄干净了。
そして、ちょっと待っていてくださいね、と言って、新しいポップコーンの箱を持って戻ってきた。
说了稍等片刻后,拿着新的爆米花回来了。
そして、はい、どうぞ、と言ってそれをお子さんに手渡した。
边说给你,把爆米花递给了小孩。
お子さんは「ありがとう」と言って、普通にポップコーンをまた食べ始めた。
孩子说了“谢谢”,正常地吃起了爆米花。
おじいさんはやっぱり反応が少し遅くて、驚いたまま。
爷爷还是反应有点慢,还呆着。
しばらくして、お母さんが戻ってきた。
稍后妈妈回来了。
おじいさんは説明しようとするが、うまく説明することができない。
爷爷想要说明,却没能说清楚。
そのまま、お母さんはおじいさんとお子さんを連れて、別のところに行った。
就这样,妈妈带着爷爷和孩子,去了别的地方。
お母さんは何も知らないまま。
妈妈什么也不知道。
子どもさんは、少し失敗をした。
孩子失手了。
箱を落としてしまった。
盒子掉了。
おじいさんは何もできなかった。
爷爷什么都做不了。
けれども、スタッフさんは何も言わずにそのリカバリーをした。
但是,工作人员什么都没说把一切都恢复了。
仕事が増えたし、損をしたとも言える。
可以说工作增加了,还亏了。
しかし、このスタッフさんは訓練を受けていただろう。
可是,这位工作人员受过训练的吧。
そういうことがあったら、こういうふうに対応しなさい。
有这种事的话,要这样应对。
そういうことというのは起こることなんだ。
这种事是会发生的。
それに対応するのが大事な仕事だ。
应付这种事是很重要的工作。
私たちも、イエスから訓練を受けている。
我们也从耶稣那里接受了训练。
イエスは私たちの足を取って、足を洗ってくださった。
耶稣伸手给我们洗脚。
私たちの罪を、イエスは、何も言わずに取り扱ってくださった。
耶稣什么都不说就担当了我们的罪。
命がけで。
赔上性命。
だから、私たちも、何も言わずにお互いの罪を取り扱いたい。
因此,我们大家也什么都不要说互相担当对方的罪。
悪いことというのは起こるもの。
不好的事是会发生的。
悪いことがあった時に、批判するのではなく、我慢するのでもなく、それを取り扱いたい。
有不好的事,不是批判,不是忍受,而是担当。
それは、感謝されないことかもしれない。
或许得不到感谢。
ディズニーランドのスタッフは、それほど感謝されなかった。
迪斯尼的工作人员也没怎么被感谢。
イエスも弟子に感謝されなかった。
耶稣也没被门徒感谢。
少なくともその時は。
至少当时是。
感謝されなくてもいい。
不被感谢也无所谓。
それが、愛するということ。
这就是爱。
愛は感謝を求めない。
爱不求感激。
感謝されたい愛は愛ではない。
想要被感激的爱就不是爱了。
イエスの愛は自分にとって都合のいい人を愛するというのではない。
耶稣的爱不是爱对自己来说合适的人。
自分が好きな人を愛するというのでもない。
也不是爱自己喜欢的人。
お互いの罪を何も言わずに取り扱うということ。
是什么都不说,担当彼此的罪。
そうする時に、ディズニーランドは「夢の国」だが、そこに、イエスの「神の国」が実現していく。
迪斯尼只是“梦幻王国”,而到那时,耶稣的“神的国”就会实现。