今週の説教「一人も滅びないで」(新約聖書・マタイによる福音書18章10節から14節)

 

「一人も滅びないで」

 

                          一个也不会丢

 

新約聖書・マタイによる福音書1810節から14

 

  新约圣经马太福音1810-14

 

10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。11人の子は、失われたものを救うために来た。12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

  “你们要小心,不可轻看这小子里的一个。我告诉你们,他们的使者在天上常见我天父的面。人子来,为要拯救失丧的人。一个人若有一百只羊,一只走迷了路,你们的意思如何?他岂不撇下这九十九只,往山里去找那只迷路的羊吗?若是找着了,我实在告诉你们:他为这一只羊欢喜,比为那没有迷路的九十九只欢喜还大呢!你们在天上的父也是这样,不愿意这小子里失丧一个。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これらの小さな者」。

 

  “这些小子”。

 

先週のイエスの言葉では、「わたしを信じるこれらの小さな者」。

 

  是上周耶稣的话语中说到的“这信我的小子们”。

 

イエスを信じている人。

 

  信耶稣的人。

 

その人を、小さいからと言って「軽んじないように」。

 

  这些人,虽说小,也“不要小看”。

 

軽く見るな。

 

  不要轻视他们。

 

低く見るな。

 

  不要看低他们。

 

先週、弟子たちは、天の国では誰が一番偉いか、という話をしていた。

 

  上周,门徒说到在天国里谁最大。

 

弟子たちは、偉くなりたい。

 

  门徒想要做最大的。

 

人の上に立ちたい。

 

  想站在人之上。

 

そうすると、小さい人を軽んじるということが起こってくるだろう。

 

  这样便会有看轻小子的事。

 

自分が人の上に立ちたいという思いと、小さい者を軽く見るというのは、コインの裏表。

 

  想着站在他人之上和看轻弱小者,就好比是银币的正反两面。

 

どちらかだけということはない。

 

  不会只存在一面。

 

偉くなりたいと思う人は、その人の目で見て偉くない人を軽く見る。

 

  想要成为厉害的人,就会看轻那些在他们眼中看上去不厉害的人。

 

だから、先週イエスは、自分を低くしなさいと言った。

 

  所以,上周耶稣说,要谦卑自己。

 

そして今日は、軽んじるな、と言う。

 

  而今天要说的是不要轻视人。

 

 

 

 

 

そして、大事なことを言う。

 

  而且说了重要的事。

 

「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。

 

  “告诉你们,他们的使者在天上常见我天父的面。”

 

「彼らの天使たちは」。

 

  “他们的使者”。

 

ここから、「守護天使」という考え方が生まれた。

 

  这里开始有了“守护天使”这种想法。

 

一人一人に天使がついてくれているという考え。

 

  每个人都有天使跟随,这种想法。

 

それはありがたいことだし、天使は一体何をしてくれるんだろうか、と興味がわく。

 

  这点令人感谢,同时也产生了兴趣,天使到底做什么呢?

 

しかし、聖書のどこを読んでも、そういったことはくわしく書かれていない。

 

  可是,不管读圣经的哪里,这事都没有详细写。

 

では一体イエスはここで何を言おうとしたのか。

 

  那么耶稣在这里到底要说什么呢?

 

弟子たちに向かって、「あなたがたの天使たちは」と言ったのではない。

 

  没有对门徒说“你们的天使”。

 

「彼らの天使たちは」。

 

  而是“他们的天使”。

 

これらの小さな者たちの天使たちは、ということ。

 

  也就是这些小子们的天使。

 

人の目に小さな者であっても、その人は神から見放された者ではないということ。

 

  是指那些即使是世人眼里的小子,神也不会放弃的人。

 

そして、天使たちは「いつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」。

 

  而且,天使们“常见我天父的面”。

 

小さな者たちを見ているのではなく、他の人たちを見ているのではなく、神を見上げている。

 

  不是看那些小子,不是看其他的人,而是仰望神。

 

本当に上におられる方だけを見上げている。

 

  只仰望真正居上的那一位。

 

地上を見下ろして、人間を低く見たりはしない。

 

  不俯视地面,不把人看低。

 

そう言って、弟子たちの考え方を変えようとする。

 

  这样说,想要改变门徒的思考方式。

 

 

 

 

 

そして、イエスはたとえを話す。

 

  于是,耶稣说了比喻。

 

「迷い出た羊」のたとえ。

 

  “迷失的羔羊的比喻。

 

神様はたった一匹の羊が迷子になってしまっても、それを探しに行く。

 

  就算只是一只羊丢了,神也会去找。

 

たった一匹の羊でも、神様にとっては大切な羊。

 

  即使只是一只羊,对神来说也是重要的羊。

 

そして、最後のところを見ると、迷子になった羊というのは、「これらの小さな者の一人」。

 

  看到最后的话,就知道迷失的羊,其实就是“这小子中的一个”。

 

ということは、九十九匹は弟子たち。

 

  也就是说,九十九头是门徒。

 

ここで、先週の話を思い出す。

 

  这里要回想一下上周的内容。

 

先週の話でイエスは、小さい者をつまずかせるな、と言った。

 

  在上周的话语中说到,不要让小子跌倒。

 

「つまずく」というのは、信仰をなくしてしまうこと。

 

  “跌倒”就是失了信仰的意思。

 

偉くなりたいと思っている人が、ある人を小さい者だと見なす時、小さいとされた人が信仰をなくしてしまうことがある。

 

  想着要做最大的人,视别人为小子的时候,被看作是小子的那些人就会失了信仰。

 

それが、迷子の羊。

 

  这便是迷失的羊。

 

しかし、神様はその羊をさがしに行く。

 

  可是,神去找寻那羊。

 

そして、見つけたら喜ぶ。

 

  而且,找到了就欢喜。

 

「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」。

 

  “比那没有迷路的九十九只欢喜还大呢”。

 

神様の目は、見つけたその一匹にだけ、向けられている。

 

  神的眼只注视着找到的那只。

 

九十九匹にとっては困ったことかもしれない。

 

  对那九十九只来说,或许会想不通。

 

自分たちは山に残されて、じっと待っていなくてはならない。

 

  自己被留在山上,必须要一直等着。

 

その間に狼が来たらどうするのか。

 

  这期间要是狼来了的话怎么办呢?

 

不安になる。

 

  会不安。

 

 

 

 

 

しかし、このたとえ話では、九十九匹の気持ちは描かれていない。

 

  可是,这比喻中,没有描写到那九十九只的心情。

 

迷子の羊の気持ちも描かれていない。

 

  也没有写到迷失的小羊的心情。

 

神様の御心だけ。

 

  只有神的心情。

 

イエスは、御心を知りなさい、と教えている。

 

  耶稣教导说,要知晓神的心意。

 

誰が偉い、誰が小さい。

 

  谁伟大,谁渺小。

 

それは人間の考え。

 

  这是人的想法。

 

私たちはそんな考えをストレートに表に出したりはしないけれども、そういう考えがいつも頭の中にある。

 

  虽然我们不会直接表达出这样的想法,但这种想法一直存在于我们的脑海中。

 

そして、場合によっては、人を軽くみるためではなく、人を誉めるためなら、そんな考えを出してもいいのかな、と思う。

 

  而且会觉得,根据情况,如果不是轻看人,而是赞扬人的话,表达出这种想法也是可以的。

 

でも、御心は違う。

 

  但是,神的心意不是这样。

 

たとえ人がある人を小さいと思ったとしても、そして、その小さい人が信仰をなくして迷子になってしまったとしても、神様は探しに行く。

 

  就算众人都觉得此人是小子,而且即使这小子失了信仰,成了迷途的羔羊,神都要去寻找。

 

これは、この世の考え方とは違う。

 

  这点和世间的想法不同。

 

九十九匹はどうするんですか。

 

  九十九只会怎样呢?

 

そう、私たちは数字で考えるんです。

 

  我们用数字思考。

 

小さい時から数字で考える訓練を受けてきましたから。

 

  因为从小就接受训练用数字思维。

 

そして、数字で考えるのが上手な人が、この世では偉いんですよね。

 

  而且,擅长用数字思维的人,在世上是厉害的人吧。

 

でも、神様は数字では考えないんです。

 

  但是,神不用数字思考。

 

もし神様が数字で考える方なんだとしたら、私たちはどうなっていますか。

 

  如果神用数字思考的话,我们会怎样呢?

 

私たちは皆、神に背く者です。

 

  我们大家都背弃了神。

 

罪があるんです。

 

  我们有罪。

 

そして、その罪を自分ではどうにもできないんです。

 

  而且,我们自己无法承担这份罪。

 

自分の罪を自分でどうにかできる可能性は0なんです。

 

  自己承担这份罪的可能性为0

 

私たちはどうなるんですかね。

 

  我们会如何呢?

 

でも、その私たちのために、十字架で、私たちのために代わりに罰を受けてくださったんです。

 

  但是,神为了我们,代替我们在十字架上受了罚。

 

代わりに罰を受けると言っても、死刑です。

 

  代替我们受罚,就是受死。

 

代わりに一発殴られるとか、代わりに怒鳴られるとか、そういうことではない。

 

  不是代替我们被揍一顿,不是代替我们被怒骂一顿。

 

あなたのためなら命を捨てます。

 

  为你舍命。

 

数字で考えていたら、こんなことはできない。

 

  用数字来思考的话,这种事就做不了了。

 

神様はそういう方なんです。

 

  神是这样的一位。

 

 

 

 

 

その意味で、私たちは皆、迷子の羊。

 

  这意义来说,我们大家都是迷失的羔羊。

 

先週、イエスは、「子どものようになりなさい」と言った。

 

  上周,耶稣说“要像小孩那样”。

 

そして、その「子ども」というのは「イエスを信じる小さな者」ということだった。

 

  而这“小孩”就是指“相信耶稣的小子”。

 

そして、今日、イエスはその「小さな者」のことを「迷子の羊」だと言った。

 

  而今天耶稣把这“小子”说成是“迷失的羔羊”。

 

「子どものようになりなさい」というのは、あなたは「迷子の羊です」ということ。

 

  “要像小孩那样”就是说你是“迷失的羔羊”。

 

そのあなたを、神様は探し出してくださったんですよ。

 

  神会找到你。

 

探し出したどころではない。

 

  岂止是找出来。

 

自分の命を捨てた。

 

  还要舍弃自己的生命。

 

「子どものようになりなさい」というのは、私たちが努力して立派になることではない。

 

  “要像孩子那样”不是说我们要努力成为优秀的人。

 

自分が迷子の羊なんだと自覚すること。

 

  而是要知道自己是迷失的羔羊。

 

私たちはみんなそう。

 

  我们大家都是。

 

数字に強い人も、そうでない人も。

 

  数字方面厉害的人是,不厉害的人也是。

 

大事なのは、私たちがどのようなものであろうとも、イエスは迷子の私たちを探し出してくださったから、今、私たちはここにいるということ。

 

  重要的是,不管我们是怎样的,耶稣都会找到迷途的我们,所以现在,我们在这里。

 

それだけが私たちにとって大事なこと。

 

  对我们来说重要的只有这一点。

 

すごいことですね。

 

  了不起吧。

 

神が私を探して、見つけ出してくださった。

 

  神寻找我,把我找出来。

 

一番偉いのは誰か。

 

  最伟大的是谁呢?

 

神。

 

  是神。

 

神を仰ごう。

 

  仰望神吧。

 

私たちは、神の御心の中で生かされている。

 

我们活在神的里面。