「子どものように」
新約聖書・マタイによる福音書18章1節から9節
1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」6「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。7世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。8もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。9もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
弟子たちがイエスに聞いた。
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。
驚くような質問。
「天の国」とは何か。
「天国」と聞くと、どこか遠くにあるような気がするが、まず、聖書では、「天」は「神」と同じ。
「国」は「支配」ということ。
神の支配。
神の元から来たイエス・キリストがそれをこの地上に実現していく、広めていく。
もともとの地上は罪の支配だけれども、キリストが神の支配を実現していく。
そういうもの。
当然、神の支配は人の力で作っていくものではない。
だから、その中で誰が一番偉いか、と考えること自体が間違っている。
弟子たちは、この世の感覚を神の国に持ち込んでしまっている。
そこで、イエスは弟子たちの考えを変える。
そのために、一人の子どもを呼び寄せた。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。
心を入れ替えろ、と言う。
それは「子供のようになる」こと。
そして、もう一つが、やはり子供だが、5節。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。
「子供を受け入れる」こと。
一番目は、自分自身が「子供のようになる」こと。
二番目に、自分が大人として、「子供を受け入れる」こと。
では、「子供のようになる」とはどういうことか。
私たちはこう聞くと、まっすぐな心で生きる、ということをイメージする。
しかし、イエスが言ったのはそういう意味ではないらしい。
「自分を低くして、この子供のようになる」と言っている。
「自分を低くすること」。
しかしこれはどういう意味だろうか。
謙遜になる、ということか。
確かに、弟子たちは謙遜ではない。
自分を低くするどころか、偉くなりたい弟子たち。
「天の国で一番偉いのは誰か」ということを本気で考えて、イエスに相談に来るような弟子たち。
この弟子たちは、謙遜にならなければ。
しかし、子どもは謙遜なのか。
そうとは言えない。
子どもの方が大人よりももっとストレートに、誰が一番偉いか、ということを大事にする。
最近の言葉で、「スクール・カースト」という言葉があるらしい。
学校の中に、誰が一番偉いか、誰がその次か、というランキングがあるらしい。
そして、自分自身のことを思い出してみると、そういうランキングは、私は幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、高校でも、見てきたと思う。
子どもが謙遜だとは言えない。
ただ、子どもは、大人に比べて自分が偉いとは思っていない。
子どもたちの中でも、誰が一番偉いか、ということはあるが、子どもは大人より自分が偉いとは思っていない。
イエスは一人の子どもを弟子たちの中に立たせた。
弟子たちは大人。
弟子たちは子どもより自分の方が偉いと思っていただろう。
その弟子たちに、自分を低くして、子どものようになりなさい、と言った。
つまり、相手より自分が偉いと思うな、とイエスは言った。
もう一つの、「子供を受け入れる」。
子どもはまっすぐ、ストレート。
だから時々、大人は困る。
しかし、そのような子どもを受け入れなさい、と言われる。
「受け入れる」というのは、受け入れにくいものを受け入れること。
受け入れやすいものを受け入れるとは言わない。
大人にとって子どもは受け入れにくい。
自分の方が上だと思っているし、子どもは大人を困らせることがある。
しかし、受け入れなさい。
そして、そういう子どもを、「わたしの名のゆえに受け入れる」ことが言われている。
子どもを受け入れることが、イエスを受け入れることになっていくと言う。
イエスのために、受け入れにくいものを受け入れなさい、ということ。
その話が、6節につながっていく。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。
子どものことが「わたしを信じるこれらの小さな者」と言われている。
子どもは子どもでも、イエスを信じている。
しかし、大人が子どもを受け入れないから、子どもが「つまずく」ということがある。
「つまずく」というのは、信仰をなくしてしまうということ。
イエスを信じている大人が、イエスを信じている子どもを受け入れないなら、そういうことは起こるだろう。
そして、そんなことがないように、と言われている。
大人がイエスを信じている。
子どももイエスを信じている。
それなのに、その子どもを受け入れないなら、イエスを受け入れていないことになる。
しかし、大人にとって子どもが受け入れにくいということはある。
また、大人と子どもと、どちらが偉いか。
私たちは、大人の方が偉いと思っている。
その点で、「誰が一番偉いか」と質問した弟子たちと同じ。
ただ、大人も子供も、イエスを信じるなら、神の国のメンバー。
神の国のメンバーにとって一番大切なのは、イエスを信じているということ。
年齢が上だとか、知恵があるとか力があるとかではない。
神の国はイエスが実現していってくださるもの。
だから、イエスを信じるということが一番大事。
ただ、そういうことは起こるというのが7節。
「世」がつまずかせる、と言われているが、神の国にこの世の考え方を持ち込む時、そういうことが起こってくる。
年齢や能力で誰が偉い、というのはこの世の考え方だと言っている。
そして、8節9節では、自分で自分をつまずかせることだってある、と言われている。
私たちは神の国のメンバーだが、この世で生きている。
私たちの頭の中には、この世の考え方が入っている。
年齢が上の人は上だ。
能力のある人は上だ。
私たちが意識しないでも、どういう人が上だ、という考えは頭の中にある。
そして、気が付いたら、イエスを信じることよりもこの世の価値観の方が大事になってしまっているということがある。
それが「つまずく」ということ。
そうなったら信仰ではない、とイエスは言っている。
だから、この世の価値観は、切り取ってでも捨ててしまいなさい、とイエスは言う。
切り取って捨てなければいけない、ということは、この世の考え方というのが、本当に私たちと一つになってしまっているから。
それくらい、私たちにとって、この世の考え方は、私たち自身の一部になってしまっている。
それこそ手術をしなければいけないくらいだ、とイエスは見ている。
小さな病気は薬で治る。
大きな病気はそうではない。
私たちは、この世の考え方という大きな病気になってしまっている。
私もそうかもしれない、と思うことがある。
今日の話は子どもの話だが、私にも小さい子どもがいる。
子どもというのはかわいいもの。
これは悪い考えではないが、この世でも同じように考えられている。
いやこれも、この世の価値観だろう。
私が子どもの頃は、子どもというのは今よりも大事にされなかった。
イエスの時代ではもっとそうだった。
しかし、現代では、父親が自分の子どもがかわいいと言うのは普通のこと。
実際、どれだけ嫌なことを考えていても、子どもの顔を見ると思わず笑顔になってしまう。
それはもう本当に不思議で、どんな時でも。
けれども、私は、イエスのことを考える時、いつでも、どんな時でも笑顔になるかと言われたら、そうではない。
子どもの顔を見ると笑顔になるのに。
いつでも、どんな時でも、イエスのことを考えるだけで、私たちは笑顔になっていい。
この私の救い主なんだから。
もしかしたら私は、イエスより子どもが偉いと思っている、と言われてしまうかもしれない。
そんなことはないだろうが、この世の価値観というのは、本当に私たちが意識してもいないところでも、私たちを支配しているということはある。
気を付けたい。
そのために、自分が偉いとは思わないこと。
そして、イエスを信じることを一番にすること。
この二つはこの世の価値観ではない。
だから、私たちはこれが難しいことかもしれない。
しかし、だからこそ、これは私たちがイエスの弟子であるしるしになる。
これをやっていきたい。