今週の説教「子どものように」(新約聖書・マタイによる福音書18章1節から9節)

 

「子どものように」

 

                          如孩子般

 

新約聖書・マタイによる福音書181節から9

 

  新约圣经马太福音181-9

 

1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」6「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。7世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。8もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。9もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 

  当时,门徒进前来,问耶稣说:“天国里谁是最大的?”耶稣便叫一个小孩子来,使他站在他们当中,说:“我实在告诉你们:你们若不回转,变成小孩子的样式,断不得进天国。所以,凡自己谦卑像这小孩子的,他在天国里就是最大的。凡为我的名接待一个像这小孩子的,就是接待我。”“凡使这信我的一个小子跌倒的,倒不如把大磨石拴在这人的颈项上,沉在深海里。这世界有祸了!因为将人绊倒;绊倒人的事是免不了的,但那绊倒人的有祸了!倘若你一只手或是一只脚叫你跌倒,就砍下来丢掉。你缺一只手或是一只脚进入永生,强如有两手两脚被丢在永火里。倘若你一只眼叫你跌倒,就把它剜出来丢掉。你只有一只眼进入永生,强如有两只眼被丢在地狱的火里。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弟子たちがイエスに聞いた。

 

  门徒问耶稣:

 

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。

 

  “到底谁是天国最大的呢?”

 

驚くような質問。

 

  另人惊讶的问题。

 

「天の国」とは何か。

 

  “天国”是什么?

 

「天国」と聞くと、どこか遠くにあるような気がするが、まず、聖書では、「天」は「神」と同じ。

 

  一听到“天国”,感觉像是很遥远的地方,但是在圣经中,“天”就是“神”。

 

「国」は「支配」ということ。

 

  “国”就是“支配”。

 

神の支配。

 

  “天国”就是神的支配。

 

神の元から来たイエス・キリストがそれをこの地上に実現していく、広めていく。

 

  从神而来的耶稣基督让“神的支配”在这片土地上实现,并发展扩大。

 

もともとの地上は罪の支配だけれども、キリストが神の支配を実現していく。

 

  原来的土地受罪的支配,基督要实现神的支配。

 

そういうもの。

 

  是这个意思。

 

当然、神の支配は人の力で作っていくものではない。

 

  当然,神的支配不是靠人来完成的。

 

だから、その中で誰が一番偉いか、と考えること自体が間違っている。

 

  所以,这当中谁最伟大,这种想法本身就是错的。

 

弟子たちは、この世の感覚を神の国に持ち込んでしまっている。

 

  门徒把世俗的想法带入了神的国度。

 

 

 

 

 

そこで、イエスは弟子たちの考えを変える。

 

  于是,耶稣改变门徒的想法。

 

そのために、一人の子どもを呼び寄せた。

 

  为此,叫来了一个小孩。

 

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。

 

  “我实在告诉你们:你们若不回转,变成小孩子的样式,断不得进天国。所以,凡自己谦卑像这小孩子的,他在天国里就是最大的。”

 

心を入れ替えろ、と言う。

 

  说要用心回转。

 

それは「子供のようになる」こと。

 

  这是指“要像小孩子那样”。

 

そして、もう一つが、やはり子供だが、5節。

 

  而且还有一点,还是孩子,第5节。

 

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。

 

  “凡为我的名接待一个像这小孩子的,就是接待我。”

 

「子供を受け入れる」こと。

 

  “接待小孩”。

 

一番目は、自分自身が「子供のようになる」こと。

 

  第一点,自己“要像小孩那样”。

 

二番目に、自分が大人として、「子供を受け入れる」こと。

 

  第二点,自己作为大人,“要接待小孩”。

 

 

 

 

 

では、「子供のようになる」とはどういうことか。

 

  那么,“像孩子那样”是什么意思呢?

 

私たちはこう聞くと、まっすぐな心で生きる、ということをイメージする。

 

  我们一听到这话,就会想到单纯正直。

 

しかし、イエスが言ったのはそういう意味ではないらしい。

 

  可是,耶稣所说的似乎不是这个意思。

 

「自分を低くして、この子供のようになる」と言っている。

 

  说“要谦卑像这小孩子”。

 

「自分を低くすること」。

 

  “使自己谦卑。”

 

しかしこれはどういう意味だろうか。

 

  可是这又是什么意思呢?

 

謙遜になる、ということか。

 

  是要谦逊吗?

 

確かに、弟子たちは謙遜ではない。

 

  确实,门徒并不谦逊。

 

自分を低くするどころか、偉くなりたい弟子たち。

 

  别说降低自己了,根本就是想要做伟大的门徒。

 

「天の国で一番偉いのは誰か」ということを本気で考えて、イエスに相談に来るような弟子たち。

 

  正经思考着“天国里谁最大”,来找耶稣商讨。

 

この弟子たちは、謙遜にならなければ。

 

  这些门徒,必须要变得谦逊。

 

しかし、子どもは謙遜なのか。

 

  可是,小孩谦逊吗?

 

そうとは言えない。

 

  不能说一定是的。

 

子どもの方が大人よりももっとストレートに、誰が一番偉いか、ということを大事にする。

 

  小孩比大人更直接,谁最大,这事很看重。

 

最近の言葉で、「スクール・カースト」という言葉があるらしい。

 

  最近好像有一个词叫“校园种姓”。

 

学校の中に、誰が一番偉いか、誰がその次か、というランキングがあるらしい。

 

  是指在学校里,谁是老大,谁是老二,类似这样的排名。

 

そして、自分自身のことを思い出してみると、そういうランキングは、私は幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、高校でも、見てきたと思う。

 

  回想一下,这样的排名我在幼儿园,小学,初中,高中都见过。

 

子どもが謙遜だとは言えない。

 

  不能说孩子就很谦逊。

 

ただ、子どもは、大人に比べて自分が偉いとは思っていない。

 

  不过,比起大人,孩子并不认为自己更伟大。

 

子どもたちの中でも、誰が一番偉いか、ということはあるが、子どもは大人より自分が偉いとは思っていない。

 

  孩子们中间也有谁最大这样的事,但是孩子们并不觉得自己比大人要伟大。

 

イエスは一人の子どもを弟子たちの中に立たせた。

 

  耶稣让一个孩子站在门徒中间。

 

弟子たちは大人。

 

  门徒是大人。

 

弟子たちは子どもより自分の方が偉いと思っていただろう。

 

  相比孩子,门徒更觉得自己伟大吧。

 

その弟子たちに、自分を低くして、子どものようになりなさい、と言った。

 

  耶稣对那些门徒说,谦卑自己,要像孩子那般。

 

つまり、相手より自分が偉いと思うな、とイエスは言った。

 

  也就是说,耶稣说的是不要觉得自己比别人伟大。

 

 

 

 

 

もう一つの、「子供を受け入れる」。

 

  还有一点,“要接待孩子”。

 

子どもはまっすぐ、ストレート。

 

  孩子正直,直率。

 

だから時々、大人は困る。

 

  所以有时候大人会很为难。

 

しかし、そのような子どもを受け入れなさい、と言われる。

 

  可是,耶稣说要接受那样的孩子。

 

「受け入れる」というのは、受け入れにくいものを受け入れること。

 

  “接受”就是指接受那些难以接受的东西。

 

受け入れやすいものを受け入れるとは言わない。

 

  不会说接受容易接受的。

 

大人にとって子どもは受け入れにくい。

 

  对于大人而言,小孩是难以接受的。

 

自分の方が上だと思っているし、子どもは大人を困らせることがある。

 

  大人觉得自己高高在上,而且小孩会给大人带来麻烦。

 

しかし、受け入れなさい。

 

  可是,要接受。

 

そして、そういう子どもを、「わたしの名のゆえに受け入れる」ことが言われている。

 

  而且说,“为我的名接受”这样的孩子。

 

子どもを受け入れることが、イエスを受け入れることになっていくと言う。

 

  说接受孩子就是接受耶稣。

 

イエスのために、受け入れにくいものを受け入れなさい、ということ。

 

  为了耶稣,接受难以接受的东西。

 

 

 

 

 

その話が、6節につながっていく。

 

  这说法,连着第6节。

 

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。

 

  “凡使这信我的一个小子跌倒的,倒不如把大磨石拴在这人的颈项上,沉在深海里。”

 

子どものことが「わたしを信じるこれらの小さな者」と言われている。

 

  把孩子说成是“信我的小子”。

 

子どもは子どもでも、イエスを信じている。

 

  即使是小孩,也信耶稣。

 

しかし、大人が子どもを受け入れないから、子どもが「つまずく」ということがある。

 

  可是,大人不接受孩子,就是绊倒孩子。

 

「つまずく」というのは、信仰をなくしてしまうということ。

 

  “绊倒”就是指失了信仰。

 

イエスを信じている大人が、イエスを信じている子どもを受け入れないなら、そういうことは起こるだろう。

 

  信耶稣的大人,如果不接受信耶稣的孩子,就会有这样的事。

 

そして、そんなことがないように、と言われている。

 

  于是就说了希望不要有这样的事发生。

 

大人がイエスを信じている。

 

  大人相信耶稣。

 

子どももイエスを信じている。

 

  孩子也相信耶稣。

 

それなのに、その子どもを受け入れないなら、イエスを受け入れていないことになる。

 

  然而,要是不接受孩子的话,就是不接受耶稣。

 

 

 

 

 

しかし、大人にとって子どもが受け入れにくいということはある。

 

  可是,对大人来说,有难以接受小孩的时候。

 

また、大人と子どもと、どちらが偉いか。

 

  另外,大人和孩子,谁更伟大呢?

 

私たちは、大人の方が偉いと思っている。

 

  我们认为大人更伟大。

 

その点で、「誰が一番偉いか」と質問した弟子たちと同じ。

 

  这一点和门徒问“谁最伟大”是一样的。

 

ただ、大人も子供も、イエスを信じるなら、神の国のメンバー。

 

  不过,大人也好,孩子也罢,相信耶稣,就是神国的一员。

 

神の国のメンバーにとって一番大切なのは、イエスを信じているということ。

 

  作为神国的一员,最重要的就是相信耶稣。

 

年齢が上だとか、知恵があるとか力があるとかではない。

 

  不是年长,不是智慧,也不是能力。

 

神の国はイエスが実現していってくださるもの。

 

  神的国度耶稣来实现。

 

だから、イエスを信じるということが一番大事。

 

  所以,相信耶稣是最重要的。

 

 

 

 

 

ただ、そういうことは起こるというのが7節。

 

  不过,会发生这种事,第7节。

 

「世」がつまずかせる、と言われているが、神の国にこの世の考え方を持ち込む時、そういうことが起こってくる。

 

  说这世界有祸了,把俗世的想法带入神的国度,就会发生这样的事。

 

年齢や能力で誰が偉い、というのはこの世の考え方だと言っている。

 

  说以年龄或能力来论定谁大,是俗世的想法。

 

 

 

 

 

そして、89節では、自分で自分をつまずかせることだってある、と言われている。

 

  并且在第89节,说也有自己绊倒自己的事情。

 

私たちは神の国のメンバーだが、この世で生きている。

 

  我们虽然是神国的一员,但是生活在这世上。

 

私たちの頭の中には、この世の考え方が入っている。

 

  在我们的头脑中,渗透着俗世的想法。

 

年齢が上の人は上だ。

 

  年纪大的人为上。

 

能力のある人は上だ。

 

  能力强的人为上。

 

私たちが意識しないでも、どういう人が上だ、という考えは頭の中にある。

 

  即便我们意识不到,什么人为上的想法存在我们的大脑中。

 

そして、気が付いたら、イエスを信じることよりもこの世の価値観の方が大事になってしまっているということがある。

 

  而且,一旦意识到了,世间的价值观就会变得比信耶稣更为重要。

 

それが「つまずく」ということ。

 

  这就是“绊倒”。

 

そうなったら信仰ではない、とイエスは言っている。

 

  耶稣说这样的话就不是信仰了。

 

だから、この世の価値観は、切り取ってでも捨ててしまいなさい、とイエスは言う。

 

  所以,耶稣说,世上的价值观,就算是切除也要把它舍弃。

 

切り取って捨てなければいけない、ということは、この世の考え方というのが、本当に私たちと一つになってしまっているから。

 

  必须切除扔掉,因为世俗的想法已经和我们连在一起了。

 

それくらい、私たちにとって、この世の考え方は、私たち自身の一部になってしまっている。

 

  对我们来说,世俗的想法已经成了我们身体的一部分了,已经到了这个程度了。

 

それこそ手術をしなければいけないくらいだ、とイエスは見ている。

 

  正因为如此,在耶稣看来到了必须要进行手术的地步了。

 

小さな病気は薬で治る。

 

  小病用药医治。

 

大きな病気はそうではない。

 

  大病不行。

 

私たちは、この世の考え方という大きな病気になってしまっている。

 

  我们得了世俗的想法这一大病。

 

 

 

 

 

私もそうかもしれない、と思うことがある。

 

  有时候会觉得,自己或许也是这样的。

 

今日の話は子どもの話だが、私にも小さい子どもがいる。

 

  今天的内容是孩子的话题,我也有小孩。

 

子どもというのはかわいいもの。

 

  小孩很可爱。

 

これは悪い考えではないが、この世でも同じように考えられている。

 

  这虽然不是什么坏的想法,世人都同样这么认为的。

 

いやこれも、この世の価値観だろう。

 

  但这也是俗世的价值观。

 

私が子どもの頃は、子どもというのは今よりも大事にされなかった。

 

  在我小时候,小孩并没有像现在那般被重视。

 

イエスの時代ではもっとそうだった。

 

  耶稣的时代更是如此。

 

しかし、現代では、父親が自分の子どもがかわいいと言うのは普通のこと。

 

  可是现在,父亲说自己的孩子可爱,这很普遍。

 

実際、どれだけ嫌なことを考えていても、子どもの顔を見ると思わず笑顔になってしまう。

 

  实际上,不管想到多讨厌的事,看到孩子的脸就不自觉地笑出来。

 

それはもう本当に不思議で、どんな時でも。

 

  这真的不可思议,不管什么时候都是。

 

けれども、私は、イエスのことを考える時、いつでも、どんな時でも笑顔になるかと言われたら、そうではない。

 

  可是,我想到耶稣的时候,不管什么时候都能笑出来吗,不是的。

 

子どもの顔を見ると笑顔になるのに。

 

  看到孩子的脸却能笑出来。

 

いつでも、どんな時でも、イエスのことを考えるだけで、私たちは笑顔になっていい。

 

  不管什么时候,只要想到耶稣,我都能笑出来就好了。

 

この私の救い主なんだから。

 

  因为他是我的救世主。

 

もしかしたら私は、イエスより子どもが偉いと思っている、と言われてしまうかもしれない。

 

  或许会说,比起耶稣,我觉得孩子更大。

 

そんなことはないだろうが、この世の価値観というのは、本当に私たちが意識してもいないところでも、私たちを支配しているということはある。

 

  虽然没有这样的事,但是俗世的价值观真的就在有意无意中支配着我们。

 

気を付けたい。

 

  希望大家要注意。

 

そのために、自分が偉いとは思わないこと。

 

  所以,不要认为自己伟大。

 

そして、イエスを信じることを一番にすること。

 

  并且,相信耶稣最重要。

 

この二つはこの世の価値観ではない。

 

  这两点不是世上的价值观。

 

だから、私たちはこれが難しいことかもしれない。

 

  所以,我们可能会觉得这很难。

 

しかし、だからこそ、これは私たちがイエスの弟子であるしるしになる。

 

  可是,正因为如此,这点才能成为我们是耶稣门徒的证明。

 

これをやっていきたい。

 

希望大家能做到这点。