今週の説教「命を得るためには」(新約聖書・マタイによる福音書19章13節から22節)

 

新約聖書・マタイによる福音書1913節から22

 

  新约圣经马太福音1913-22

 

13そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 

  那时,有人带着小孩子来见耶稣,要耶稣给他们按手祷告,门徒就责备那些人。耶稣说:“让小孩子到我这里来,不要禁止他们,因为在天国的,正是这样的人。”耶稣给他们按手,就离开那地方去了。

 

16さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

  有一个人来见耶稣说:“夫子,我该作什么善事,才能得永生?耶稣对他说:“你为什么以善事问我呢?只有一位是善的。你若要进入永生,就当遵守诫命。”他说:“什么诫命?”耶稣说:“就是不可杀人,不可奸淫,不可偷盗,不可作假见证,当孝敬父母,又当爱人如己。”那少年人说:“这一切我都遵守了,还缺少什么呢?”耶稣说:“你若愿意作完全人,可去变卖你所有的,分给穷人,就必有财宝在天上,你还要来跟从我。”那少年人听见这话,就忧忧愁愁地走了,因为他的产业很多。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。手を置いて祈る、というのは、相手を祝福する祈り。親たちが、自分の子どもを祝福してもらいたくて、イエスのところに連れて来た。この親たちはイエスが素晴らしい先生だと聞いていたのだろう。だから、子どもたちを連れて来た。

 

  为了让耶稣按手祷告,人们把孩子带来了。按手祷告,就是为对方祝福而祷告。父母为了给孩子祝福,把孩子带到了耶稣那里。这些父母听说耶稣很厉害,所以把孩子带来了。

 

 

 

 

 

しかし弟子たちはこの人たちを叱った。弟子たちの気持ちは分からないわけではない。弟子たちは、イエスの行くところ、どこにでも従っていく。しかし、この親たちはどうか。自分の子どもを祝福してほしい、ということだけで、イエスに従って行こうというつもりはない。そうなると、弟子たちとしてはいい気はしない。弟子たちは親たちを叱った。

 

  可是门徒责备这些人。不是不能理解门徒的心情。耶稣所去的地方,无论哪里,门徒都追随。可是那些父母呢?希望给自己孩子祝福,只有这点想法,并不打算跟从耶稣。这样的话,门徒就没了好心情,责备那些父母。

 

 

 

 

 

けれども、イエスの考えは違った。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」大事なことが言われている。天の国は、この子どもたちのような人のものである。どんな人のことだろう。子どもたちは親に連れて来られただけ。自分でここにやってきたわけではない。親が連れて来た。自分から、祝福してくださいと言ったわけでもない。ただ、親の言う通りにして、親の後について行ったら、祝福された。

 

  可是,耶稣的想法却不同。“让小孩子到我这里来,不要禁止他们,因为在天国的,正是这样的人。”说到了很重要的内容,天国是这些如同孩子般的人的。是怎样的人呢?孩子们只是被父母带来的,不是自己来到这里的,是父母带来的,也不是自己说请给我祝福。只是按父母所说的做了,跟在父母后面去了,就被祝福了。

 

 

 

 

 

この前、教会で洗礼を受けた子どもたちはそう。親の後について行ったら、洗礼を受けた。祝福された。大人でもそういう人もいる。ある時、誰かから声をかけられて、ついて行ったらイエスに結ばれた。ある意味、みんな同じ。ある時、誰かが、イエスのことを教えてくれる。そして、イエスのところに行くようになる。そうすると、祝福されて、天の国のメンバーになる。

 

  之前在教会受洗的孩子们也是如此。跟在父母后面,就受洗了,得祝福了。即便是大人,也有这样的时候。某个时候,有谁喊了你,跟着去了后就结识了耶稣。某种意义来说,大家都一样。在某个时候,有人告知了耶稣的事,于是,就去了耶稣那里。如此一来,就受了祝福,成了天国的一员。

 

 

 

 

 

イエスは子どもをご自分のところに来させて、天の国はこのような者たちのものである、と言ったが、大事なことは年齢ではない。子どもだって、親があそこに行こう、と言った時に、嫌だと言うことがある。ただ、この子たちは親の言う通りにして、連れて来られて、祝福された。もしかしたら、どうして行かなければいけないのかも分かっていなかったかもしれない。イエスのことも分かっていなかったかもしれない。ただ、親に抱かれて、親に手を引かれて、そこに行ったら祝福された。

 

  耶稣说,让孩子去他那里,因为天国正是这样的人的,重要的不是年龄。就算是孩子,在父母说去那里时,也会有说不想去的时候。不过,这些孩子按父母所说的做了,被带了来并受了祝福。或许他们连为什么要去都不晓得,也有可能连耶稣都不知道。只是被父母抱着,手牵着去了,就被祝福了。

 

 

 

 

 

天の国は、自分の力で手に入れるものではないということ。「天の国はこのような者たちのものである」と言うが、「ものである」と聞くと、何か自分の力で手に入れるもののような気がするが、そうではない。天の国は与えられるもの。イエスが与えてくださるもの。

 

  天国不是凭借自己的力量就能到手的。说“天国是这样的人的”,一听到“东西”,总感觉是能靠自己的力量得到的东西,并非如此。天国是赏赐的,是耶稣所赐的。

 

 

 

 

 

そこのところで間違えていたのが金持ちの青年。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。この人は、自分の力で永遠の命を手に入れようとしている。永遠の命とは何か。この世では、誰も永遠に生きることはできない。永遠の命は、神の前で永遠に生きる、天の国での命。この人は、何か善いことをすれば天の国に入れるはずだと考えた。イエスからすると、考え方が間違っている。イエスは少し厳しい言い方をする。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。ここでイエスは、この人の心を神に向けさせようとしている。この人の心は、自分の方にだけ向いていた。自分が、自分の力で、天の国に入るには、何をすれば良いか。イエスは、「何が善いことなのかを考えるのなら、神のことを考えなさい、神の掟、神の言葉を守りなさい」と言う。

 

  那里搞错了的是一位有钱的年轻人。“夫子,我该作什么善事,才能得永生呢?”此人想要凭一己之力得着永生。什么是永生呢?在这世上,谁也不可能永远活着。永生是指永远活在神的面前,是在天国的生命。此人认为做了什么善事的话就肯定可以入天国。在耶稣看来,这想法是错的。耶稣用了比较严厉的讲法。“你为什么以善事问我呢?只有一位是善的。你若要进入永生,就当遵守诫命。在这里耶稣想要让这人的心归向神。这人的心只向着自己。凭借自己的力量,进入天国,该做些什么为好呢? 耶稣说“想知道什么是善事的话,就要想着神,遵守神的诫命,神的话语。”

 

 

 

 

 

しかし、掟を守れば天の国に入れるのか。「どの掟ですか」と聞かれて、イエスは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えた。最初の五つは十戒の言葉。イエスの時代よりずっと昔に、神がモーセに与えた十の言葉。しかし、十戒を守ったら天の国に入れるのか。

 

  可是,遵守诫命的话就能进天国吗?被问到“什么诫命?”耶稣回答说“就是不可杀人,不可奸淫,不可偷盗,不可作假见证,当孝敬父母,又当爱人如己。”前面五点是十诫中的话。是在耶稣之前很久,神赐给摩西的话。可是,遵守十诫的话就能进天国吗?

 

 

 

 

 

そもそも、十戒とは何か。ずっと昔にエジプトで奴隷にされていた人たちが、エジプトから救い出された後に与えられた言葉。十戒を守ったから救われたわけではない。救われた後に与えられた言葉。これから幸せに生きていけるように、ということで神が与えてくださった言葉。つまり、それを守ったら天の国に入れる、というような言葉ではない。最後の「隣人を自分のように愛しなさい」というのも、多くの人が聖書の大事な言葉だと考えていた言葉だが、これもやはり、これを守ったら天の国に入れる、という言葉ではない。

 

  十诫原来是指什么呢?很久以前在埃及为奴的人们,从埃及被救出之后,神所赐的话语。并非遵守了十诫后才得救的,而是得救后所赐的话语。今后要幸福地生活,为此缘由神赐予他们的话。也就是说,并不是说遵守的话就能进天国这类的话。最后的“要爱人如己”也是很多人所认为的圣经中的重要话语,但也不是说遵守这点的话就能进天国。

 

 

 

 

 

それなのにどうして、イエスはこういう言葉を持ち出したのか。20節の、この人の言葉を引き出すためではなかったか。この人はイエスに言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」この人は、しっかりと、きちんと生きてきた。自分ではそのつもりだった。それだったら何も心配しなくていいのではないかと思うが、何かが足りないんじゃないかと思っていた。まだ何か善いことをしなければいけないような気がしていた。きちんと生きてきたつもりだけれども、自分が確かに天国に行けるかどうかというと、確信できない。だからイエスのところにやってきた。

 

  那么为什么,耶稣要举出这样的话呢?是为了引出20节这人要说的话吧。他对耶稣说:“这一切我都遵守了,还缺什么呢?”此人规规矩矩,坚守原则。自己就打算这样做的,觉得这样一来就无需担忧了,觉得应该就没什么不足之处了吧?另外还注意到了必须要做点什么善事。虽然打算规规矩矩生活,但是却不确定自己能否真的能去天国,所以来到了耶稣那里。

 

 

 

 

 

イエスは、この人に言った。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」この人は完全になろうとしている。きちんと生きてきたけれども、自分が確かに天国に行けるかどうか分からない。だから、やるべきことがまだあるのならそれをして、自分は確実に天国に行けると思いたい。イエスはそれに対して、財産を貧しい人に与えろと言った。そうすれば天に富を積むことになる、というのはその通りだろうが、どうして財産を持っていてはいけないのか。だいたい、イエスの弟子たちも、イエスに従っているが、自分の財産を貧しい人に与えたということはない。

 

  耶稣对这人说:“你若愿意做完全人,可去变卖你所有的,分给穷人,就必有财宝在天上,你还要来跟从我。”此人决定要做完全人。虽然规矩生活,但是不知道自己能否真的去得了天国,所以,如果还有该做的就要去做,想要确保自己能去天国。对此,耶稣说,把财产分给穷人。这样的话,就能积财富在天上,虽说是如此,但为什么不能有财产呢?耶稣的大多数门徒虽然跟从耶稣,也没有把自己的财产分给穷人。

 

 

 

 

 

これは、この金持ちに対して、イエスが言ったこと。この人は、仕事もきちんとしていたのだろう。だから、お金が積み重なって積み重なって、金持ちになった。金持ちというのはそういうこと。だからこの人は、天の国についても同じように考える。神の言葉を守って生きる。それは良いこと。しかし、その良いことをまるでお金を貯めるように、積み重ねる感覚。その上に、何か善いことをして、それも積み重ねて、天国に確実に入れるようになろう。その考え方が間違っている。天国は与えられるもの。自分の力を積み重ねて入るところではない。

 

  这是耶稣对这位有钱人说的。此人工作也是一丝不苟的吧。所以钱越积越多,成了有钱人。有钱人就是这样,因此这人对于天国也是这么认为的。遵守神的话语是好的,可是,简直就好像要把好事如存钱那般,积累起来的感觉。而且,作善事,也是为积累,确保能进天国。这种想法错了,天国是赏赐的,不是积积聚自己的力量进去的。

 

 

 

 

 

それを分からせるために、イエスは、持ち物を売り払って、貧しい人に与えてから、わたしに従いなさい、と言われた。何もない自分になって、イエスに従う。その人に、イエスは天の国を与えてくださる。最初の子どもも同じ。大人に連れて来られただけ。何もない、自分。その自分がイエスの前に立つ。そのような人に、天の国が与えられる。

 

  为了让他明白这点,耶稣说把所有的东西变卖,分给穷人之后,来跟从我。变成一无所有的自己后,跟从耶稣。耶稣要赐给他天国,像一开始的孩子那般,只要大人带着来,一无所有的自己。这样的自己站到耶稣面前,天国赐给这样的人。

 

 

 

 

 

この人は「悲しみながら立ち去った」と書かれている。たくさんの財産を持っていたから、それを手放すことができなかった。ただ、大事なのは財産が多いか少ないかではない。自分の力を積み重ねるというこの世の感覚を手放すことができるかどうか。この世の感覚では、天の国には入れない。天の国は神のもの。だから、神に与えていただくしかない。

 

  写着那人“忧忧愁愁地走了”。因为拥有很多的财产,无法放弃那些。不过重要的不是财产的多少,而是能不能放弃积聚自己的力量这种世间的想法。以这种想法,是进不了天国的。天国是神的,所以,只能由神赐予。

 

 

 

 

 

もしかしたら、と思うのだが、この人は、後から、イエスのところに帰ってきたかもしれないと思う。この人が、「悲しみながら」立ち去ったから。もし、この人が、「怒って」立ち去ったのなら、この人が後からイエスのところに帰ってくる可能性は低いと思う。しかし、「悲しみながら」。悲しかったというのはどういうことか。そうしたい、でも、できない。この人は、イエスの言葉をきちんと受け止めている。

 

  可能会觉得,这人后面或许会回到耶稣那里,因为他“忧忧愁愁”地离开了。如果他是“生气”地离去的话,之后回到耶稣那里的可能性就很低了。可是,他“忧愁”。忧愁是为什么呢?想要这么做,可是又做不到。这人很清楚地听进去了耶稣的话。

 

 

 

 

 

考えてみると、この人は、自分が天国に入れるという実感を持てなかったのだが、そのことも、この人が真面目で誠実な人であるということ。自分の力を積み重ねて天国に行こう、という考え方は間違っているが、自分で自分をチェックできる人だったのではないか。もしこの人がダメな人なら、自分は大丈夫だ、と勝手に確信するはず。しかしこの人は、どれだけきちんと生きても、天国に行けるという確信が持てなかった。そして、イエスの言葉を聞くと、したいけれどもできないと思って、悲しくなった。自分には、出来ない。「何もない、自分」。この人は、後から、イエスのところに帰ってきたのではないか。むしろ、この人が後から帰ってくることが分かっているから、イエスはこの人にできないようなことを言ったのではないか。

 

  想想看,这人并没有抱着自己能进天国的想法,这一点也说明此人是很正经诚实的人。积聚自己的力量想要进入天国,这种想法虽然不对,但是他是那种能自我警醒的人不是吗?如果那个人不太像样的话,反而会自我任意妄为,觉得自己肯定没问题。可是,不管他如何规矩地活着,却不确定自己能否进入天国。而且,听了耶稣的话,想这么做却觉得做不到,所以很忧伤。做不到“什么都没有的自己”,这人此后能回到耶稣那里的吧。因为耶稣知道此人后面会回去,所以才说了他难以做到的事吧。

 

 

 

 

 

イエスはその人その人にふさわしい仕方で、天の国に招いてくださる。私たちはそれを信じて良い。私たちには天の国は確かなもの。イエスが招いてくださっているから。

 

  耶稣用适合各人的方式呼召我们进天国,我们相信就好,天国确实是我们的,因为耶稣会呼召我们。