今週の説教「偽善者の不幸」(新約聖書・マタイによる福音書23章13節から24節)

 

 

「偽善者の不幸」

 

伪善者的不幸

 

 

新約聖書・マタイによる福音書2313節から24

 

 

  新约马太福音2313-24

 

13「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 15律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 16ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 19ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。 20祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。 21神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。 22天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。 23律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」

 

  “你们这假冒为善的文士和法利赛人有祸了!因为你们正当人前,把天国的门关了,自己不进去,正要进去的人,你们也不容他们进去。你们这假冒为善的文士和法利赛人有祸了!因为你们走遍洋海陆地,勾引一个人入教,既入了教,却使他作地狱之子,比你们还加倍。你们这瞎眼领路的有祸了!你们说:‘凡指着殿起誓的,这算不得什么;只是凡指着殿中金子起誓的,他就该遵守。’你们这无知瞎眼的人哪!什么是大的?是金子呢?还是叫金子成圣的殿呢?你们又说:‘凡指着坛起誓的,这算不得什么;只是凡指着坛上礼物起誓的,它就该遵守。’你们这瞎眼的人哪!什么是大的?是礼物呢,还是叫礼物成圣的坛呢?所以,人指着坛起誓,就是指着坛和坛上一切所有的起誓;人指着殿起誓,就是指着殿和那住在殿里的起誓;人指着天起誓,就是指着神的宝座和那坐在上面的起誓。你们这假冒为善的文士和法利赛人有祸了!因为你们将薄荷、茴香、芹菜献上十分之一,那律法上更重的事,就是公义、怜悯、信实,反倒不行了。这更重的是你们当行的,那也是不可不行的。你们这瞎眼领路的,蠓虫你们就滤出来,骆驼你们倒吞下去。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエスが律法学者とファリサイ派の人々について話をする。

 

  耶稣在说关于文士和法利赛人的事。

 

律法学者とファリサイ派の人々というのは、聖書の先生で、聖書の言葉の通りに生活するように努力していた人たち。

 

  文士和法利赛人就是教圣经的老师,按圣经话语努力过活的那些人。

 

この人たちは、周りから、まじめな人たちだ、立派な人たちだと思われていた。

 

  这些人被周围人认为是一丝不苟的人,了不起的人。

 

しかし、イエスはその人たちに、「あなたたち偽善者は不幸だ」と言う。

 

  可是,耶稣却对那些人说“你们这些假冒为善的人有祸了”。

 

この「偽善者」という言葉は俳優という言葉。

 

  “伪善者”这词就是演员一词。

 

俳優は舞台の上で演技をする。

 

  演员在舞台上表演。

 

人に見てもらうことが目的。

 

  目的是让人看。

 

聖書の先生たちは、周りから尊敬されていたが、尊敬されるためにやっている、尊敬されたくてやっているということをイエスは見抜いていた。

 

  教圣经的老师们受到周围人的敬重,为了受人敬重才这么做的,耶稣看穿他们想要得到尊重才这么做的。

 

聖書が大事だからその通りにするのではなくて、自分が尊敬されるために、聖書の言葉を大事にしている自分を周りに見せる。

 

  不是因为圣经重要才照着做的,为了使自己被人尊重,才让周围人看到自己很重视圣经的话语。

 

 

 

 

 

それは確かに不幸なことだけれども、イエスがここで、この人たちのことを不幸だと言っている理由は少し違うらしい。

 

  这的确会招来不幸,但耶稣在这里说那些人有祸的理由似乎稍微有点不同。

 

「人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。

 

  “因为你们正当人前,把天国的门关了,自己不进去,正要进去的人,你们也不容他们进去。”

 

なんと、聖書の先生の言うことを聞いていたら天国に入れない。

 

  听了圣经先生的话后居然进不了天国。

 

どうしてか。

 

  为什么呢?

 

「天」という言葉は聖書では「神」と同じように遣われる。

 

  “天”在圣经中用的和“神”是同一个词。

 

そして、「国」という言葉は、聖書の言葉では、「支配」という意味にもなる。

 

  而且,“国”在圣经中也有“支配”的意思。

 

天の国と言うのは、神の支配。

 

  所谓天国,就是神的支配。

 

天の国に入るというのは、神の支配に入るということ。

 

  所谓进天国,就是受神的支配。

 

だから私たちは、今、こうして生きている間にも、神の支配に入ることが出来る。

 

  所以,就算我们现在这样活着的时候,也可以受神的支配。

 

けれども、聖書の先生たちは、偽善者、俳優。

 

  但是,圣经先生他们是伪善者,是演员。

 

神の前に生きていない。

 

  不是活在神的面前。

 

人の前に生きている。

 

  而是活在人的面前。

 

だから、自分でも天の国に入ろうとしないし、その人たちの話を聞いている人たちも同じ考えになってしまって、天の国に入れなくなる。

 

  因此,他们自己进不了天国,听他们的人也变得和他们一样想法的话,那就进不了天国了。

 

 

 

 

 

それだけではなく、15節で言われている。

 

  不仅如此,15节说:

 

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」。

 

  “你们这假冒为善的文士和法利赛人有祸了。因为你们走遍洋海陆地,勾引一个人入教,既入了教,却使他作地狱之子,比你们还加倍。”

 

聖書の先生は一生懸命伝道して、神を信じようになった人が出てきたとしても、その人を「地獄の子」にしてしまう。

 

  圣经先生努力传道,虽然有人相信了神,但是却让人变成了“地狱之子”。

 

天の国に入れない、どころではない。

 

  岂止是进不了天国。

 

地獄。

 

  是入了地狱。

 

人からいいように見られることを目標にするのは、この世の子ではなく、地獄の子。

 

  让世人看为好,以此作为目标的话,就不是这世间的孩子,而是地狱的孩子。

 

 

 

16節や18節に、聖書の先生たちがどういうことを教えていたのかが書かれている。

 

  16-18节,写了圣经先生他们是如何教的。

 

「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」。

 

  “凡指着殿起誓的,这算不得什么;只是凡指着殿中金子起誓的,它就该遵守。”

 

「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」。

 

  “凡指着坛起誓的,这算不得什么;只是凡指着坛上礼物起誓的,他就该谨守。”

 

「誓い」ということが言われているが、この時代には、神に願い事をする時に、願い事をかなえてくださったらこれをささげます、と誓って、願い事をすることがあった。

 

  说的是“起誓”,在当时,向神许愿的时候,起誓说愿望实现的话就把这献上,有这种许愿。

 

私の願いを聞いてくださったら、黄金をささげますよ。

 

  听我的许愿,我就献上黄金。

 

私の願いを聞いてくださったら、供え物をしますよ。

 

  听我的许愿,我就献供。

 

つまり、具体的なささげものが何なのかをはっきりさせてからお願いをしないと、その願い事は無効だ、ということ。

 

  也就是说,如果不是清楚说明具体献上的是什么再许愿的话,许愿就无效。

 

神はそんなに生活に困っているのか?

 

  神生活如此困难吗?

 

聖書の先生たちがそんなことを教えていた。

 

  圣经先生教这样的事。

 

 

 

 

 

大事なのは、ここでイエスが見つめているのは、「どちらが尊いか」ということ。

 

  重要的是,这里耶稣看重的是“什么是大的?”

 

神殿の壁は黄金で覆われていた。

 

  神殿的墙壁上镶着金子。

 

しかしこの場合、黄金が尊いのではない。

 

  可这不是说黄金尊贵。

 

神のおられる神殿が尊いから、神殿の壁を黄金で覆った。

 

  因为神所在的神殿尊贵,所以才在神殿的墙上镶金的。

 

供え物と祭壇と、どちらが尊いか、というのも同じこと。

 

  供物和祭坛哪个尊贵,也是同样的。

 

例えば、神への供え物にする羊。

 

  比如说,献祭的羊。

 

それはもちろん価値のあるもの。

 

  这当然是有价值的东西。

 

しかし、羊が神への「供え物」になるのは、それが祭壇に置かれるからで、祭壇に供え物が置かれると、神にささげられたということになる。

 

  可是,羊变成给神的“供物”,是因为它被放到了祭坛上,供物被放到了祭坛上,就成了献给神的东西。

 

黄金や供え物は人の目に価値のあるもの。

 

  黄金、供物是人眼中有价值的东西。

 

ただ、本当に尊いのは、目に見えない神がおられる神殿であり、目に見えない神にささげる祭壇。

 

  不过,真正尊贵的是眼看不见的神所在的神殿以及献给看不见的神的祭坛。

 

目に見えない神が、一番尊い。

 

  眼看不见的神才是最尊贵的。

 

そして、黄金についても、供え物についても、同じことが言われている。

 

  关于黄金和供物,说的都是同样的事。

 

神殿が黄金を清める。

 

  神殿洁净了黄金。

 

祭壇が供え物を清める。

 

  祭坛洁净了供物。

 

人間の目に価値のあるものでも、清められなければいけない。

 

  即使是人眼中有价值的东西,也必须要洁净。

 

清められて、初めて神のものになる。

 

  被洁净之后才开始变成神的东西。

 

それくらい、神は尊い。

 

  神如此这般尊贵。

 

それなのに、聖書の先生たちは勘違いしている。

 

  然而,圣经先生们却搞错了。

 

目に見えるささげものが何なのかをはっきりさせてからお願いをしなさい、と教える。

 

  教导说要明示眼睛看得见的祭品是什么之后再许愿。

 

目に見えない神が大事なのに、目に見えるモノのことだけに心を向けさせている。

 

  眼看不见的神才是最重要的,然而,却让众人只倾心于眼睛看得到的东西。

 

この人たちに教わると、心はどんどん神から離れていく。

 

  要是让这些人教的话,心就会渐渐远离神。

 

 

 

 

 

そうなると、すべてがすべて、形だけになっていく。

 

  这样的话,一切的一切,都只会趋于形式。

 

それが23節。

 

  23节。

 

「薄荷」はミント、「いのんど」はアニス、「茴香」はクミンのこと。

 

  “薄荷”、“芹菜”、“茴香”。

 

これは、ささげものをするというよりこの時代の税金だが、聖書の中に、こういう小さなものでもちゃんとささげなさいという決まりがある。

 

  这些说是祭物,其实是当时的税金,就算是这样的小东西也要如数奉献,在圣经中有这样的规定。

 

もちろんそれをいい加減にしていいわけではない。

 

  当然不是说想怎样就怎样。

 

誰にも分からないから秘密にしておいて、自分の物にしてしまおうというのは良くない。

 

  因为谁都不知道就把它藏起来,想要变为自己的东西,这是不对的。

 

ただ、大事なのは、心。

 

  不过,重要的内心。

 

「正義、慈悲、誠実」。

 

  “公义、怜悯、信实。”

 

あなたは神の目に正しいか、隣人を愛し、心がまっすぐか。

 

  你在神眼中是公义的吗,爱邻舍吗,正直吗?

 

聖書の先生たちはそうではなかった。

 

  圣经先生他们可不是。

 

形にこだわって、心の中は気にしない。

 

  拘泥于表面,不在意内心。

 

その目的は、人に良いように思われることだった。

 

  其目的是让人觉得自己是好人。

 

 

 

 

 

今日、イエスは、聖書の先生たちの何が問題なのかを長く話した。

 

  今天,耶稣说了很多圣经先生的问题是什么。

 

聞いている私たちとしても、自分には当てはまらないとは言えないので、自分がつらくなるくらい。

 

  就连听着的我们,也变难受了,因为不能说我们就不是那样。

 

ただ、イエスの御心はどんなだっただろうか。

 

  不过,耶稣的初衷是什么呢?

 

今日、イエスは、「あなたたち偽善者は不幸だ」と繰り返した。

 

  今天,耶稣反复说“你们这假冒为善的人有祸了”。

 

その「不幸だ」という言葉は、あなたがたはもうダメだ、というような言葉ではない。

 

  “不幸”,并不是说你们不行。

 

「ああ」、とか「おお」とかいうような言葉。

 

  而是“唉”这样的词。

 

つまりイエスは、この人たちを攻撃しているとか、見捨てたとか、そういうことではない。

 

  就是说,耶稣不是要攻击那些人,抛弃那些人。

 

憐れみで言ったこと。

 

  用怜悯的口气说的。

 

そして、イエスが人を攻撃したり見捨てたりする方ではなく、このどうしようもない人間というものを、憐れみの目で見つめてくださる方だからこそ、イエスはこの後、ご自分から十字架に進んでいく。

 

  而且,耶稣不会攻击人,抛弃人,正因为他用怜悯的目光注视着无可救药的人类,后来才会自己走上十字架。

 

イエスは私たちを、心から憐れんでくださっている。

 

  耶稣发自内心地怜悯我们。

 

私たちが、人の目によく見られたいと思って、形にこだわって、大事なところで間違ってしまうことがないようになるためには、その、イエスの憐れみの目に気づくこと。

 

  只想着让世人觉得自己好,拘泥于表面,把重点搞混,为了不变成这样,我们要注意耶稣怜悯我们的双眼。

 

 

 

 

 

イエスは私たちを憐れんで、私たちのために命まで捨ててくださる。

 

  耶稣怜悯我们,为我们舍命。

 

イエスは私たちが新しくされるためなら何だってしてくださる。

 

  耶稣为了让我们成为新造的人,什么都愿意做。

 

今日、イエスは、人の目に自分を良く見せたいと思って生きている人のことを、「地獄の子」だと言った。

 

  今天,耶稣说,想要让世人看到自己的好,这样过活的人是“地狱之子”。

 

私たちは皆、多かれ少なかれ、人の目に良いように見えるようにという考えを持っている。

 

  我们大家多多少少都想着要使自己在人家眼中看上去好。

 

しかし、その考えで生きるのは、イエスの目には、地獄に生きているのと同じ。

 

  可是,这样想着过活的话,在耶稣眼中就如同活在地狱中。

 

私たちはそれを地獄とまでは思わない。

 

  我们不觉得这是地狱这般严重。

 

しかし、イエスの目には地獄。

 

  可是,在耶稣眼里是地狱。

 

私たち自身はそこまで思わないが、イエスにとってはそう。

 

  我们自己觉得不至于此,但是对耶稣来说却是的。

 

いやこれは、イエスが正しい。

 

  这点耶稣是对的。

 

神の前に生きることを考えないで、人の前に生きる。

 

  没有想着要活在神的面前,而是要活在人的面前。

 

その人には、神がいない。

 

  在此人眼中,没有神。

 

それが地獄。

 

  这就是地狱。

 

イエスは私たちを、普通のところから、天の国という良いところに連れて行きたいわけではない。

 

  耶稣并不是想把我们从普通的地方带到天国这个好地方去。

 

イエスは私たちを、地獄から天国に連れて行きたい。

 

  耶稣想要把我们从地狱救出带到天国去。

 

私たちは自分から進んで地獄に入っていくような者であるのに、イエスは、もし私たちがこの世という地獄から救われて、天国に入れるなら、自分の命も惜しくない。

 

  我们是自己要入地狱的人,而耶稣,如果能把我们从这个人间地狱中救出来,进入天国的话,牺牲自己的性命都在所不惜。

 

もうこうなると、憐れみだけではない。

 

  这样的话,就不只是怜悯了。

 

神はどうしようもなく、人を愛している。

 

  神无可救药得爱着我们。

 

その神の愛と憐れみの目で、私たちは見つめられている。

 

  神用他爱与怜悯的目光关注着我们。

 

命がけの、愛と憐れみ。

 

  牺牲的爱与怜悯。

 

この真剣な神の目を、しっかりと受け止めたい。

 

  希望大家切切地接受这真挚的目光。

 

天国は、そこにある。

 

  天国在那里。

 

そこにしかない。

 

  别无他处。

 

今、天の国に入ろう。

 

现在,进天国吧。