26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
他们吃的时候,耶稣拿起饼来,祝福,就擘开,递给门徒,说:“你们拿着吃,这是我的身体。”又拿起杯来,祝谢了,递给他们,说“你们都喝这个,因为这是我立约的血,为多人流出来,使罪得赦。但我告诉你们:从今以后,我不再喝这葡萄汁,直到我在我父的国里同你们喝新的那日子。”他们唱了诗,就出来往橄榄山去。
今日は宗教改革記念日。
今天是宗教改革纪念日。
マルチン・ルターがドイツで宗教改革を始めた日。
马丁・路德在德国发起宗教改革的日子。
ルターは教会のドアに、その時代の教会が間違っているんじゃないかという点について、95個も書いた紙を貼り付けた。
路德就当时教会存在的95点问题写下来,贴在了教会的门上。
教会のドアにそんなものを貼り付けたというのは物凄い強い思いで宗教改革をしようというつもりがあったんだろうと私たちは思う。
我们会认为,在教会门上贴这种东西,必定有很强烈的想法想要进行宗教改革。
しかし、実はそうではない。
可是,事实并非如此。
教会のドアは当時の掲示板だった。
教会的门是当时的公告栏。
そして、ルターは、一つのグループに入っていて、そのグループでは、毎週誰かがテーマを決めて、そのテーマについて議論するということをやっていた。
而且,路德参加了一个小组,这个小组每周定一主题,就这个主题进行讨论。
だから、ルターは今まで通り普通のことをしただけ。
因此,路德只不过做了一直以来都做的再普通不过的事。
ただ、そこから、人間の思いを超えた神の働きが始まっていった。
不过,在那之后,超乎常人思维的神的做工开始了。
今日の場面は最後の晩餐。
今天的内容是最后的晚餐。
聖書の中で、一番有名な場面かもしれない。
可能是圣经中最有名的场景吧。
レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた絵があまりにも有名。
列奥纳多・达・芬奇的画也非常有名。
実はあの絵には間違いがある。
实际上那画有问题。
ダ・ヴィンチの描いた絵ではキリストと弟子たちはイスに座って食事をしている。
达・芬奇所的画中基督和门徒坐在椅子上吃饭。
イスに座るというのはヨーロッパのスタイル。
坐在椅子上是欧洲做派。
聖書の時代に聖書の地域では、床に横になって、左手で頭を支えて食事をした。
在圣经时代,圣经所涉及到的地方,是躺在床上,左手撑着头吃饭的。
私たちは、目に見えるものに弱いので、有名な絵を見ると、その印象が頭に残ってしまうけれども、私たちが勘違いしていることも、実はたくさんあると思う。
我们容易倾向于眼睛看见的,一看到名画,印象就留存在了脑海中,但是我想事实上很多我们都搞错了。
今日の場面でも、キリストが祈ってから、パンを裂いて与える、杯を与えるということがある。
今天的场景中,基督祝祷之后,擘饼递给门徒,又递酒杯。
これは、何か特別のことをしているという感じがする。
这让人感觉在进行什么特别的仪式。
しかし、この時の食事は過越祭の食事。
可是,当时吃的是逾越节的晚餐。
このお祭りの食事では、祈りながら、聖書を読みながら、聖書の話をしながら食事をした。
在这个节日的晚餐上,一边吃饭,一边祈祷,读圣经,讲圣经。
そして、この食事はイエスがしているように、一人の人がホストになって、他の人たちはゲストになって、ホストがゲストにパンを回した。
而且,吃饭正如耶稣所做的那样,一个是主人,其他都是客人,主人给客人递饼。
杯も回した。
酒也是。
食べる料理も、いちいち意味がある特別のものだった。
吃的菜也是,一个一个都有特别的意义。
例えば、パンは種なしパンを食べる。
比如说,饼吃的是没有酵母的饼。
イースト菌が入っていない特別なパン。
没有放酵母的特别的饼。
固いパン。
硬的饼。
これは、旧約聖書の出エジプト記に書かれているが、昔、エジプトで奴隷だったイスラエルの人たちがエジプトから出て行く時、すぐに出て行かなくてはならなかったので、パンを焼いて持っていくにも、パン種を入れてパンを膨らませて柔らかくする時間が無いので、パン種を入れずにパンを焼いたから。
这在旧约出埃及记中写着,以前在埃及为奴的以色列人出埃及的时候,因为必须马上出发,虽然要烤饼带上,但因为没有时间放酵母让饼膨胀变松软,就没有放酵母直接烤了。
その時と同じパンを食べるということ。
是要吃和那时一样的饼。
あるいは、この食事ではワサビを食べる。
就好比在就餐时吃芥末。
どうしてか。
为什么呢?
イスラエルの人たちはエジプトを出てから長い旅をした。
以色列人出埃及后,经历了漫长的旅程。
その長い旅の中での苦しみを思い出すため。
为了记起长途跋涉中的艰辛。
この食事はそういう特別な食事。
这顿饭是这样特别的一顿饭。
だから、逆に言って、イエスがここで何か変わったことをやっているのではない。
因此,反而言之,耶稣在这里并没有作什么改变。
イエスが今していることは、同じ時間にどこの家でもやっていたこと。
耶稣现在所做的,是同一时间里,无论哪家都在做的事情。
毎年どこの家でもやっていることを、イエスと弟子たちも同じようにした。
每年无论哪家都会进行的事,耶稣和门徒也同样做了。
普通と言えば普通。
要说普通真的是很普通。
ただ、イエスがやったことは、どこの家でもやっている過越の食事と全く同じではない。
不过,耶稣所做的,和哪家都过的逾越节晚餐,并不完全相同。
イエスは過越の食事に新しい意味を与えた。
耶稣赋予了逾越节晚餐新的意义。
それが今日のイエスの言葉。
这就是今天耶稣的话语。
過越の食事ではエジプトから脱出した時の言葉がたくさん語られるけれども、今日のイエスの言葉は過越の言葉とは違う。
在逾越节的晚餐上,虽然会说很多出埃及时的话语,但是今天耶稣的话语和逾越节的不同。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
“你们拿着吃,这是我的身体。”
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
“你们都喝这个,因为这是我立约的血,为多人流出来,使罪得赦。但我告诉你们:从今以后,我不再喝这葡萄汁,直到我在我父的国里同你们喝新的那日子。”
これらの言葉は過越の食事には出てこない。
这些话在逾越节的餐食上是没有的。
パンは、キリストの体。
饼是耶稣的身体。
キリストはご自分の体まで、弟子たちに与えてくださる。
基督连自己的身体都赐给了门徒。
エジプトから出て行く時には、パンを自分で焼いた。
出埃及的时候,饼是自己烤的。
時間が無かったから、イースト菌を入れられなくて、固いパン。
因为没有时间,所以没有放酵母,是硬的饼。
それを自分で焼いたけれども、キリストはご自分の体を与えてくださる。
当时是自己烤的饼,但基督把自己的身体献出来。
次に、ワインを飲む。
接下来是喝葡萄酒。
過越の食事では、ワインを4回も飲む。
在逾越节上,喝四次葡萄酒。
食事を始める前に2回。
吃饭前喝两次。
食事が終わった後に2回。
吃饭后喝两次。
パンを食べた後なので、この時のワインは3回目。
因为是饼吃好后,所以当时是第三次。
ワインにも1回1回意味があって、3回目に飲むワインは子羊の血。
葡萄酒一次次都有意义,第三次喝的葡萄酒是羊羔的血。
エジプトから出て行く時には、エジプトのファラオはなかなか出て行っていいよと言ってくれなかった。
出埃及的时候,埃及法老怎么都不肯说你们走吧。
イスラエルの人たちは奴隷にされていたから当然。
以色列人是奴隶,自然不放他们走。
奴隷がいなくなると困る。
没有奴隶的话会很麻烦。
そこで神はイスラエルの人たちに言った。
在这里神对以色列人说:
子羊の血をドアの周りに塗りなさい。
把羊羔的血涂在门框上。
ドアの周りに血を塗ったイスラエル人の家には、何も起こらなかった。
门上图了羊羔血的以色列人的家,什么事都没有。
エジプト人の家のドアには血が塗られていない。
埃及人门上没有涂血。
その家に、神の怒りが入っていった。
神的愤怒临到了那些人家。
エジプト人の家の子どもでも動物でも、最初の子どもは命を落とした。
埃及人的孩子也好,牲畜也好,头生的都没命了。
イスラエル人の家は、神の怒りが過ぎ越した。
神的愤怒越过了以色列人的家。
それで、ファラオはイスラエル人がエジプトを出ていくことを認めた。
于是,法老就同意了以色列人出埃及。
子羊の血によって、イスラエルの人たちは救われた。
因为羊羔的血,以色列人得救了。
そのことを思い出して、3回目のワインを飲む。
要记得这事,所以喝第三杯葡萄酒。
その子羊の血のワインを飲む時に、キリストは言った。
喝这羊羔血的葡萄酒时,耶稣说:
「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。
“这是我立约的血,为多人流出来,使罪得赦”。
エジプトから出て行く時には、奴隷だったところから、子羊の血によって救い出された。
出埃及的时候,因羊羔的血从为奴之地被救了出来。
最後の晩餐では、罪に支配されているところから、キリストの血によって救い出される。
在最后的晚餐,因基督的血从罪恶之中被救了出来。
キリストが私たちの代わりに十字架で血を流してくださる。
基督代替我们在十字架上流血。
そして、そのことが、「契約」だと言われている。
并且,说这就是“契约”。
神と人との関係は契約で決まる。
神和人的关系用契约来定。
「旧約聖書」、「新約聖書」と言った時の「約」の字は「契約」ということ。
“旧约”、“新约”的“约”就是“契约”。
「旧約」は古い契約、「新約」は新しい契約。
“旧约”就是以前的约定,“新约”就是新的约定。
聖書には、神と人がどんな契約で結ばれているのかが書かれている。
在圣经中写着神和人是以什么契约联结的。
新しい契約では、神の子イエスが私たちの代わりに、私たちの罪に対する罰を受けてくださる。
在新的契约中,神子耶稣代替我们,接受对我们罪的惩罚。
それによって、私たちは罪を赦される。
我们因此而罪得赦免。
古い契約を受けて、そのような新しい契約が結ばれた。
我们领受了旧的约定,又联结了新的约定。
人が神の言葉に従うなら、神が人を祝福してくださるというのが古い契約だった。
人若顺从神的话语,神便给人祝福,这是旧的约定。
けれども、人は神の言葉に従うことができない。
但是,人没有听从神的话语。
人は契約を破ってしまった。
人毁约了。
普通、契約を破ったらペナルティーが与えられる。
一般来说,毁约是要受惩罚的。
けれども、神は契約を結びなおしてくださった。
可是,神重新立了约。
今度は、神に逆らう人の罪をご自分で背負ってくださる契約を結んでくださった。
这次,神立了约,要自己背负悖逆他的人的罪,
神に責任がないのに、神が責任を取ってくださるような契約。
神没有责任,却担负了责任,是这样的契约。
滅ぼされて当然の人間を、神の元に取り戻したいということ。
理应被灭的人,希望能招回到神那里去。
契約という言葉が使われているけれども、これはもう理屈ではない。
虽然用的是契约一词,已经不合常理了。
プロ野球でも毎年、チームと選手で契約を結ぶが、成績が悪かったら契約の内容は悪くなる。
专业棒球也是每年团队要和选手签约,成绩差的话合约的内容就会变糟。
それなのに、神は人と、人にとってもっと良い契約を結んでくださった。
然而,神和人签的,是对人来说更好的契约。
そして、イエスは私たちを救うために、どれくらい熱心だったか。
而且,耶稣救我们的心是多么地强烈呢?
イエスは弟子たちを救うために、誓いを立てた。
耶稣为了救门徒,起誓说:
「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。
“从今以后,我不再喝这葡萄汁,直到我在我父的国里同你们喝新的那日子。”
これからはワインを飲まない。
从今以后不喝葡萄酒。
今でもそういうことがあるが、聖書の時代にも、これが実現するまで、何をしない、という誓いを立てることがあった。
现在也有这种事,在圣经时代也是,实现这之前,不做什么,会立这样的誓言。
キリストの弟子たちが、いつか実現する神の国に入ってきて、そこで一緒にワインを飲むまでワインを飲まない。
基督的门徒们什么时候能来到神的国,在那里一起喝葡萄酒,在这之前,耶稣绝不再喝葡萄酒。
この時代は水が悪いので、水を飲むよりワインを飲んだ。
当时因为水质很差,喝水还不如喝酒。
だからこの誓いは、私たちの感覚で言うと、水を飲まないと言っているのと同じようなこと。
所以这誓言,用我们的感觉来说的话,就如同是说绝不喝水。
これからは牛乳でも飲むんだろうか。
难道今后要喝牛奶吗?
かなり不自由な生活になる。
生活会非常不便。
それでも、そんなことよりも、私のことよりも、神様、弟子たちを助けてください、そして、もう一度、今度は神の国で弟子たちと会いたいのです。
但是,比起这,相比自己的事,神啊,请救助门徒们,而且,希望能再次相会,下一次希望在神的国度相会。
不自由になって犠牲を払っても、このことを実現させてください。
即便不自由,即使要做出牺牲,也要实现这一点。
それがイエスの思い。
这是耶稣的想法。
イエスはこれから、十字架にかかる。
耶稣接下来要钉十字架。
罪もないのに命を奪われる。
没有罪却要失去生命。
それ以上の犠牲はない。
没有比这更大的牺牲了。
そして、イエスはご自分がそうなることを知っている。
而且,耶稣自己知道这事。
けれども、その上で、今後はワインを飲まないと言っておられる。
可是,还要说今后不喝葡萄酒了。
イエスはどれくらい、人を救うために熱心だろうか。
耶稣是多么地想要拯救人啊。
想像もできないくらい。
到了无法想象的地步。
それに対して、私たちには毎月、聖餐式がある。
因此,我们每个月都有圣餐式。
イエスがルカによる福音書で言われた通り、イエスを記念して、忘れないように、感謝するために、毎月聖餐式をする。
正如路加福音中所说的那样,纪念耶稣,为了不忘记他,为了感恩,每月进行圣餐式。
イエスの方では、とにかく今も、いつも、人を救うために働いておられる。
在耶稣来说,总之,现在也是,无论何时,为了救赎人而做工。
神の子が命を犠牲にすること以上の犠牲はない。
再也没有比神子牺牲生命再大的牺牲了。
だから、もうそれで十分。
所以,这已经足够了。
けれども、ワインを飲まない。
可是,却不喝葡萄酒。
それは今さらどうでもいいような小さなこと。
事到如今,这已经是无所谓的小事了。
でも、どんな小さなことでも、出来ることはすべてやって、人を救いたい。
但是,无论再小的事,他能做的全都要做,只想要拯救。
だから、私たちは信じて良い。
所以,我们要信。
イエスは今も、懸命に働いておられる。
耶稣现在也在拼命做工。
イエスにとって、人を救うというのは、小さなことではない。
对耶稣来说,拯救不是小事。
必死ですること、必死になること。
是拼死去做的事,死也要去做。
必死になってしまうこと。
真的做到死了。
イエスが私たちを救うためにどれだけ熱心か。
耶稣救我们的心是多么强烈啊。
私たちがイエスと向かい合ってそれを知ったら、私たちは圧倒されて泣き出すかもしれない。
我们如果见了耶稣知道了这事的话,可能会惊讶得哭出来。
聖書の中で、神を信じることが「神を畏れる」と書かれることがあるが、そんな気持ちになるだろう。
在圣经中,把信神写作“敬畏神”,就是这样的感觉吧。
そのイエスの思いを感じたい。
希望大家能感受到耶稣的这心意。
イエスは、私たちを神の国に迎えるためなら、何でもする。
耶稣为了迎接我们进入神的国度,什么都可以做。
十分なはずでも、それ以上のことをする。
即使足够了,还要做更多。
もう、理屈ではない。
已经不合常理了。
本気の本気で、突き抜けてしまった感じ。
真心的,完全通透的感觉。
そのイエスの思いの中で、私たちは生かされている。
我们活在耶稣的这份心意当中。
それが私たちの現実。
这是我们的真实。
神を畏れて、心から感謝しながら、生きていきたい。
希望大家敬畏神,发自内心地感谢神,如此过活。