新約聖書・テサロニケの信徒への手紙一2章7節後半から8節
新约・帖撒罗尼迦前书2章7后半节-8节
ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
如同母亲乳养自己的孩子。我们既是这样爱你们,不但愿意将神的福音给你们,连自己的性命也愿意给你们,因你们是我们所疼爱的。
テサロニケの信徒への手紙は、パウロが自分で伝道して、自分で建てた教会に書き送った手紙。
帖撒罗尼迦书是保罗写给自己传道,自己所建教会的书信。
その手紙の中でパウロは、自分がどのような思いで伝道していたかを書いている。
在信中,保罗写了自己是以怎样的心思来传道的。
これを今年の年間聖句にした。
把这作为今年的圣经话语。
この御言葉にならいたい。
希望大家学习这话语。
伝道したわけなので、もちろん、ここに書かれているように、「神の福音を伝える」ことをした。
因为是传道,自然,就如同这里写的那样,是“传讲神的福音”。
「神の福音を伝える」。
“传讲神的福音。”
「福音」とは「良い知らせ」。
“福音”就是“好消息”。
神があなたを救った。
神救赎了你。
あなたはまだ知らなかっただろうし、そのことに気づいてもいなかっただろうけれども、神があなたを救った。
或许你还未曾知晓,或许都没有意识到,但是神已经拯救了你。
そのことを、どういう気持ちで伝えるのがふさわしいだろうか。
以怎样的心情将这事传达才合适呢?
自分自身も救われたし、もし信じて受け入れるなら、目の前のその人も救われる。
自己也被救赎了,如果眼前的人也能相信并接受的话,他也会被救赎。
何かの勧誘とは違う。
和教唆不一样。
何かの勧誘の場合、相手にも利益があるが、自分にも利益がある。
教唆的话,对方有好处,自己也有好处。
しかし、福音を伝えるという場合、伝えても伝えなくても自分の利益は変わらない。
可是,传讲福音的话,不管传还是不传,自己的利益不会变。
それでも、伝える。
即便如此,还是要传。
しかも、福音を伝える場合には、難しいことが一つある。
可是,传讲福音,有一难点。
神があなたを救ったことを知ってもらいたい。
希望对方知道神救赎了你。
しかし、その人は多くの場合、自分が救われないといけないんだということを知らない。
可是,很多情况下,对方不知道自己必须要被救赎。
それも、自分の罪から救われるという話。
而且,还是从自己的罪孽中被救赎。
まず、自分に罪があるということを知ってもらわないといけない。
首先,必须要知道自己有罪。
もしかすると、伝えた相手は気分を悪くするかもしれない。
对方可能会反感。
「福音」という言葉は元々は、戦争の専門用語だった。
“福音”一词原本是战争专用语。
戦争に勝ったという知らせのこと。
是战争胜利的消息。
戦争に勝ったという知らせなら、伝えるのは簡単。
如果是战争胜利的消息,那么传讲起来就简单了。
誰でも、それを喜んで聞いてくれる。
谁都乐意听到这消息。
しかし、キリストの福音を伝えるのは簡単なことではない。
可是,传讲基督的福音不是简单的事。
それでも、伝える。
即使这样,还是要传。
伝えたい。
想要传。
その人に救われてほしいから。
因为希望那人被救赎。
福音を伝えるというのは、その人を愛すること。
传讲福音,就是爱那个人。
愛していない人に伝えるのは難しい。
很难传给不爱的人。
愛している人には、伝えたくなる。
想要传给爱的人。
福音を伝えるというのは、自分が上で相手が下で、知らないことを教えてやるぞ、ということではない。
传福音并不是自己居上,对方居下,教对方不知道的事情。
愛すること。
是爱。
それもパウロは、「自分の命さえ喜んで与えたいと願った」。
保罗也是,“连自己的性命也愿意给”。
それくらい、テサロニケの人々を愛した。
爱帖撒罗尼迦的百姓如此之深。
だから、私たちはまず、愛することを学びたい。
因此,我们首先要学的是爱。
パウロはどうして、自分の命以上に人を愛することができたのか。
保罗为什么能够爱人胜过自己的性命呢?
パウロは知っている。
因为保罗知道。
自分の命以上に、人を愛してくださった方を知っている。
知道爱人胜过自己性命的那一位。
「自分の命さえ喜んで与えたい」と言っているが、パウロはまだ、誰のためにも死んだことはない。
虽然说“连自己的性命也愿意给你们”,但是保罗还没有为谁死过。
それなのになぜ、そんなことが言えるのか。
然而,他为什么能说这样的话呢?
イエス・キリストは、パウロのためにもテサロニケの人々のためにも、ご自分から進んでご自分の命を与えてくださった。
耶稣基督,为了保罗,为了帖撒罗尼迦的百姓,献出了自己的生命。
だからパウロは、そう言える。
所以保罗能如此说。
私たちも、このことを心に留めたい。
也希望我们把这事记在心里。
イエス・キリストがどのように私を愛してくださり、どのように私を救ってくださったか。
耶稣基督如何爱我们,如何救赎我们的。
それが分かっていたら伝道できるし、分かっていなかったらできない。
明白这一点的话就能传道,不明白就不能传道。
ただ、「愛」という言葉をつかう時には気を付けたい。
不过,希望大家用“爱”这一词的时候要注意。
聖書の愛という言葉は、一般的な愛という言葉とは違う。
圣经的爱和一般的爱不同。
パウロは、「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほど」、テサロニケの人々を愛した。
保罗“连自己的性命也愿意给你们”,如此这般爱着帖撒罗尼迦的百姓。
つまり、自分には利益はない。
就是说,对自己无利。
一般的な愛という言葉では、お互いに利益がある。
一般的爱,相互都有利。
しかし、聖書の愛は与えること、自分を差し出すこと、もっと言うと、自分が犠牲になること。
可是,圣经的爱是给与,是献出自己,更准确地说,就是牺牲自己。
パウロがここで言っている愛も、キリストの愛も、その点で同じ。
保罗在这里所说的爱和基督的爱,在这点上是一致的。
キリストの十字架はもちろん、十字架に付けられる前の夜に、最後に弟子たちと一緒に過ごした時、キリストは弟子たちに何をしてくださったか。
基督的十字架当然更是,钉十字架前夜,最后和门徒在一起时,基督为门徒做了什么呢?
弟子の足を洗った。
给门徒洗脚。
足の汚れを洗うように、人の罪を取り除く。
如同洗去脚上的污泥一样,去除人的罪。
キリストに何か利益があるか。
对基督有什么好处呢?
何もない。
什么都没有。
それどころか、この時代には、人の足を洗うというのは、奴隷の仕事。
岂止如此,在那个时代,给人洗脚是奴隶的工作。
それも、異邦人の奴隷の仕事。
而且是异邦人奴隶的工作。
それをキリストはご自分から進んでしてくださった。
基督自己做了这事。
ご自分から、奴隷の姿になって、人の罪を清めた。
自己以奴隶的姿态,洗清了人的罪。
そしてそのことが、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれている。
而且把这事写成“爱门徒,就爱他们到底”。
聖書の愛は、一般的な愛とは違う。
圣经所说的爱,与一般的爱不一样。
自分から進んで犠牲になること。
是自己决定要牺牲的。
そのことをパウロは、「ちょうど母親がその子どもを大事に育てるように」と言っている。
保罗把这说成是“如同母亲乳养自己的孩子”。
すぐ後の11節には「父親」という言葉も出てくるが、親は、子どものために喜んで犠牲を払う。
后面的11节出现了“父亲”,父母为了孩子甘愿牺牲。
そして、それを犠牲とも思わない。
而且,不觉得这是牺牲。
まして、ここに出ている「母親」という言葉は、「乳母」という言葉。
况且,这里出现的“母亲”一词,是“乳母”的意思。
自分の子どもではない子どもに、おっぱいをあげる。
给不是自己的孩子喂奶。
自分の子どもではないのに、与える。
虽然不是自己的孩子,却喂他。
そのような気持ちで、パウロは伝道した。
保罗以这样的心情传道。
伝道は子育てだった。
传道是养育孩子。
それも、他人を自分の子どもにするような子育てだった。
而且是把别人当成自己的孩子那般养育。
そこにパウロの愛がある。
有保罗的爱在其中。
だからこそ、良い実を結んだ。
正因为如此,结出了硕果。
テサロニケの教会は、他の教会にとって、良いモデルになった。
帖撒罗尼迦教会对其他教会来说是很好的榜样。
昨年末、私たちの教会に伝道委員会と教育委員会が発足した。
去年年底,在我们教会中开展起了传道委员会和教育委员会。
キリストの教会は、伝道と教育をし続けてきたからこそ、時を超えて世界中に広がり、私たちの教会も建てられた。
正因为传道和教育持续进行,基督教才能代代相传下来,并在全世界发扬光大,还建立了我们的教会。
そして、私たちの教会の中にも外にも、私たちが自分の子どものように愛する子どもたち、仲間たち、町の人たちがいる。
而且,在我们教会中,以及教会之外,都有我们如同爱自己孩子那般去爱的孩子、伙伴、乡亲。
愛する者がこれほど豊かに与えられていることに感謝したい。
感恩赐予我们如此之多的人可以去爱。
子育てのような伝道を、私たちは、この愛する人々にしていきたい。
希望我们能像养育自己的孩子一般,传道给所爱的人。
難しいことというのはある。
要说难处是有的。
救いを伝えるのは、簡単なことではない。
传讲救恩,不是简单的事。
戦争に勝ったことを伝えるのとは違う。
和传达战争胜利不同。
しかし、イエス・キリストは、ご自分の命を与えても、私たちを救ってくださった。
可是,耶稣基督即使献出自己的性命,也要救赎我们。
そして、死に勝利して、復活した。
而且,胜过死亡,死后复活了。
戦争に勝ったというような、この世のレベルのことではない。
不像战争胜利那样,不是这个世界的程度。
神の力で、死に勝利した。
以神的大能,战胜了死亡。
そのキリストが、弟子たちに言った。
这位基督对门徒说:
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
“使万民作我的门徒”。
命令しただけではない。
不仅仅是命令。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
“我与你们同在,直到世界的末了”。
私たちは、私たちを愛してくださり、私たちを救ってくださった方と一緒に、人を愛して、救いを伝えていく。
我们和爱我们,救赎我们的那一位一起,去爱人,去传讲救恩。
イエスが働いてくださる。
耶稣会做工。
私たちの力でやれというのなら、私たちと共にいる必要はない。
如果仅凭我们的力量去行,就没有与我们同在的必要。
イエスが働いてくださるということ。
耶稣会做工。
先週、教会で長老の一人と話をしていたら、生協(coop・宅配サービス)が食べ物を届けてくれた。
上周,在教会和一名长老说话的时候,生协宅急送送东西来了。
受け取りに行こうとすると、その長老は言った。
要去接收的时候,那位长老说:
「先生、伝道してください」。
“牧师,请传道”。
先週の日曜の説教で、イエスを神の子、救い主だと信じることは、それを伝えることだと話をしていた。
上周日的讲道说了相信耶稣是神的儿子,是救世主,就要把这点传讲出去。
何を言ったらいいんだろう。
该说什么好呢?
初めて見る、若い宅配員。
初次见到的年轻送货员。
荷物を受け取ってから、しばらくの間、その宅配員はトラックの中で片づけをしていた。
收了东西后,这位送货员在卡车里收拾了一会儿。
「coopを始めた人はキリスト教の牧師だって知っていましたか?」。
“创立coop的人是基督教的牧师,你知道吗?”
その人は知らなかった。
他不知道。
私は少しだけ話をして、教会の中に戻った。
我稍微说了一点,回了教会。
次は、受付のパンフレットを渡そうと思う。
接着想要把接待的小册子拿给他。
一人の長老の言葉を通して、神が私に働きかけてくださった。
通过一位长老的话,神对我做工了。
難しいことはいつもある。
难处一直都存在。
子どもに教えることが一番難しかったりする。
教育孩子是最难的。
しかし、子どもは、大人が思っている以上に、大人のことを見ている。
可是,孩子关注大人,超乎大人所想。
ある牧師先生の息子さんが、小学校で劇をやった。
有一位牧师的儿子,在小学里演出戏剧。
子どもたちが自分たちでシナリオを書いて、演技をする。
孩子们自己写脚本,自己表演。
その劇の中で、牧師の息子は、牧師の役をやった。
在剧中,牧师的儿子演牧师一角。
牧師先生は息子に聞いた。
牧师问儿子。
牧師とはどういう仕事か。
牧师是做什么工作的?
「パソコンを打つ仕事」。
“打电脑的工作”。
……パソコンを打つことを通して、神の愛を伝えたい。
通过打电脑,传讲神的爱。
いや、この先生と息子さんの場合、伝わっているんじゃないか。
这位牧师和孩子之间,传递了神的爱,不是吗?
牧師の息子は、牧師の役をやった。
牧师的儿子演牧师的角色。
自分の親の仕事が嫌な仕事だと思っていたらやらない。
要是觉得自己父母的工作很讨厌的话就不会演了。
その役を登場させたこと、その役をやったこと。
演出这一角色,也就是做这项工作。
「パソコンを打つ仕事」だけれども。
虽然是“打电脑的工作”。
子どもは、大人が思う以上に大人をしっかり見て、考えている。
孩子要比大人所想的更细致地关注着大人,并且会思考。
私たちの教会の子どもたちは、どんな大人になるだろうか。
我们教会的孩子,想要做怎样的大人呢?
世の人を、仲間を、子どもたちを、愛していこう。
爱世人,爱友人,爱孩子吧。
私たちのために進んで命を投げだしてくださった方が、共におられる。
为我们献出生命的这一位,与我们同在。