今週の説教説教・「復活」(新約聖書・マタイによる福音書28章1節から15節)

(マタイによる福音書28章1節から15節)

马太福音28章1-15节

1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

       安息日将尽,七日的头一日,天快亮的时候,抹大拉的马利亚和那个马利亚来看坟墓。忽然,地大震动,因为有主的使者从天上下来,把石头滚开,坐在上面。他的相貌如同闪电,衣服洁白如雪。看守的人就因他吓得浑身乱战,甚至和死人一样。天使对妇女说:“不要害怕!我知道你们是寻找那钉十字架的耶稣。他不在这里,照他所说的,已经复活了。你们来看安放主的地方。快去告诉他的门徒,说他从死里复活了,并且在你们以先往加利利去,在那里你们要见他。看哪,我已经告诉你们了。”妇女们就急忙离开坟墓,又害怕,又大大地欢喜,跑去要报给他的门徒。忽然,耶稣遇见他们,说:“愿你们平安!”她们就上前抱住他的脚拜他。耶稣对他们说:“不要害怕!你们去告诉我的弟兄,叫他们往加利利去,在那里必见我。”

11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 他们去的时候,看守的兵有几个进城去,将所经历的事都报给祭司长。祭司长和长老聚集商议,就拿许多银钱给兵丁,说:“你们要这样说:‘夜间我们睡觉的时候,他的门徒把他偷去了。’若这话被巡抚听见,有我们劝他,保你们无事。”兵丁受了银钱,就照他所嘱咐他们的去行。这话就传说在犹太人中间,直到今日。

 

この日は週の初めの日だったということなので、日曜日。

 这天是一周的第一天,所以是星期天。

日曜日に、女性たちがイエスの墓に行った。

 星期天,妇人们去了耶稣的墓地。

そして、この女性たちのところに、復活したイエスが来てくださる。

 于是,复活的耶稣来到了妇人们那里。

その時、9節で、女性たちはイエスの足を抱いて、イエスの前にひれ伏した。

 第9节,当时妇人们抱住耶稣的脚,跪拜在耶稣的面前。

足を抱いたんだったら、もちろん、ひれ伏した姿になると思うが、わざわざここで「ひれ伏す」という言葉がつかわれている。

 抱住脚的话,自然会觉得是跪拜的姿势,但是在这里特地用了“跪拜”。

この「ひれ伏す」という言葉は、後になって、「礼拝する」という意味になった。

 “跪拜”这词后来就变成了“礼拜”的意思。

だから、私たちは日曜に礼拝する。

 所以我们在星期天做礼拜。

日曜は復活のイエスに出会う日。

 星期天是和复活的耶稣相见的日子。

 

 

しかし、女性たちにとって、この日曜日は最初から喜びの日だったわけではない。

 可是,对妇人们来说,这个星期天并不是从一开始就是欢喜的。

女性たちは、イエスの墓を見に行った。

 妇人们去耶稣的墓地看。

この「見る」という言葉は、「じっと見る」という言葉。

 “看”这个词是“盯着看”的意思。

女性たちは、ただただ、墓を見ることしかできない。

 妇人们只是去看墓地,此外什么也做不了。

この日の2日前に、この二人の女性は、イエスの体が墓に入れられるところにいた。

 两天前,这两个妇人就在耶稣身体被安放进墓的地方。

その後、この女性たちは何をしていたか。

 之后,她们做了什么呢?

他の人が帰って行った後も、墓の方を向いて座っていた。

 其他人回去后,他们还是对着墓地的方向坐着。

そして今日も、墓を見るために墓に行く。

 而且今天为了看墓地去了那里。

この女性たちには、そうすることしかできない。

 这些妇人只能做这些。

もう、この人たちは、普通の生活ができなくなっている。

 她们已经无法过正常的生活了。

そして、この、「マグダラのマリアともう一人のマリア」だが、「もう一人のマリア」というのは、イエスの母マリアだったのではないかとも言われている。

 而这里的“抹大拉的马利亚和另一位马利亚”中,“另一位马利亚”也有人说是耶稣的母亲马利亚。

一体どんな気持ちだっただろうか。

 到底是什么心情呢?

 

 

ここに神の力が現れる。

 在这里神的大能显现了。

大きな地震が起こる。

 发生了大地震。

天使が天から降りてくる。

 天使从天而降。

そして、天使が墓の石を転がした。

 而且,天使把坟墓的石头滚开了。

イエスが死んだ時にも地震が起こった。

 耶稣死的时候也发生了地震。

それだったら、復活の時にも地震が起こったのはセットになっている出来事かとも思う。

 这样一来,感觉是和复活时候发生的地震是相呼应的。

しかし、この場面は、イエスが復活した場面ではない。

 可是,这场景不是耶稣复活的场景。

イエスはもう、復活していた。

 耶稣已经复活了。

天使たちが石を転がした。

 天使把石头滚开了。

墓の中にイエスはいなかった。

 耶稣不在墓中。

地震が起こったのは、イエスが復活したからではない。

 地震发生,不是因为耶稣复活了。

天使が降りてくるというだけで、地震が起こった。

 只是因为天使降临,引发了地震。

神が強い思いで、この女性たちに話をしようとしているということか。

 是神迫切地想要和妇人们说话吗?

しかし、天使が話した内容は、女性たちに伝えるよりも、弟子たちに直接伝えた方が良いような話。

 可是,天使说的内容,相比传递给妇人们,直接传递给门徒更好。

それをわざわざ、この女性たちに伝えたところに、神の強い思いがある。

 特地把这话传给妇人们,这其中有神的美意。

弟子たちよりも悲しんでいただろうこの女性たちに、最初に、復活を伝えたい。

 想要把复活最先告诉比门徒更悲痛的妇人们。

この人たちに、最初に喜んでもらいたい。

 想要让这些人最先欢喜。

神は、人に喜んでもらいたい。

 神想要使人欢喜。

 

 

ただ、女性たちは、最初は当然、怖かった。

 不过,妇人们一开始自然是害怕的。

その場所には墓を守る兵隊もいたが、兵隊たちは怖くて固まってしまった。

 那地方还有看守墓地的兵丁,他们都吓得僵掉了。

天使は女性たちに、「恐れることはない」と言った。

 天使对妇人们说,“不是什么可怕的事。”

この言葉は、「あなたがたは恐れるな」という言葉。

 这话意思就是“你们不要害怕。”

兵隊たちが恐れても、あなたがたは恐れなくていい。

 就算兵丁害怕,你们不用害怕。

私はあなたがたのために来たんだ。

 我是为你们而来的。

 

 

そして、天使はイエスが復活したことを伝えた。

 而且,天使还传达了耶稣复活的事。

「復活なさったのだ」と言っているが、これは「復活させられたのだ」という言葉。

虽然说的是 “复活了”,其实是“让他复活了。”

イエスは復活させられた。

 让耶稣复活了。

神がイエスを復活させた。

 神让耶稣复活了。

イエスが自分の力で復活したのではない。

 耶稣不是依靠自己的能力复活的。

神がイエスを復活させた。

 是神让耶稣复活的。

そして神は、イエスだけの神ではなく、信じる人たちすべての神。

 而且,神不只是耶稣的神,是信他的所有人的神。

もちろん、この女性たちの神でもある。

 当然也是这些妇人们的神。

そして、この女性たちは、イエスを復活させた神の力を信じることができる。

 而且,这些妇人们相信让耶稣复活的神的大能。

イエスが死んだ時のように、この時も、大きな地震が起こった。

 和耶稣死的时候一样,那时也发生了地震。

神はすべてを力ある御手の内に置いておられる。

 神将一切都掌控在他全能的手中。

その神が、イエスを復活させた。

 这位神让耶稣复活了。

 

 

そして、女性たちに働きが与えられる。

 而且还给了妇人们任务。

「急いで行って弟子たちにこう告げなさい」。

 “快去告诉他的门徒。”

それは、弟子たちに復活を知らせること。

 要告知他们耶稣复活的事。

そして、ガリラヤに行きなさいということ。

 而且还要让他们往加利利去。

しかし、この弟子たちとはどういう人たちだったか。

 可是,门徒是什么样的人呢?

この弟子たちは、今は、全員逃げ出して、家の中に鍵をかけて閉じこもっている。

 门徒目前全部逃走了,房门紧锁,关在里面。

人間の目で見たら、これはもう弟子ではない。

 在世人看来,早就不是门徒了。

それでも、天使は弟子だと言っている。

 即使这样,天使还说他们是门徒。

どうして弟子だと言えるのか。

 为什么能说是门徒呢?

逃げ出したとしても、この弟子たちが、イエスが選んだ弟子たちだということは変わらない。

 即便逃跑了,这些门徒还是耶稣所拣选的,这点不会改变。

この「弟子たち」という言葉は、原文では、「彼の弟子たち」という言葉。

 “门徒”在原文中是“他的门徒”。

イエスが選んだ、イエスの弟子。

 耶稣拣选的,耶稣的门徒。

私たちも同じこと。

 我们也一样。

イエスが選んで、イエスが呼んでくださったから、今、私たちは礼拝できている。

 因为是耶稣拣选的,耶稣呼召的,所以,我们现在可以礼拜。

昨日までの私たちがどうだったとしても、イエスが選んだから、私たちもイエスの弟子。

 不管昨天之前的我是什么样的,因为是耶稣拣选的,我们也是他的门徒。

それどころか、イエスは後で、女性たちに出会ってくださって、天使が言ったことと同じことを言うが、その中の10節で、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言っている。

 岂止是这样,耶稣后面还去见了妇人们,说了和天使所说的一样的话,第10节中,说门徒是“我的弟兄”。

イエスの弟子になることは、イエスの兄弟になること。

 成为耶稣的门徒,就是成为耶稣的弟兄。

そして、兄弟というのは、一生変わらないこと。

 而且,弟兄是一辈子都不会改变的。

弟子は弟子でなくなることが実際にある。

 门徒不再是门徒,这种事事实上还是有的。

でも兄弟は、仲が悪くなっても兄弟。

 但是,弟兄的话,关系再差也还是弟兄。

一生、兄弟であることは変わらない。

 弟兄是一辈子都改变不了的。

 

 

ただ、イエスが弟子たちに会うのはガリラヤで。

 不过,耶稣见门徒是在加利利。

この女性たちには、イエスはこの後すぐに会ってくださるが、男性の弟子たちに会うのはガリラヤで。

 耶稣后面马上就见了这些妇人,但是见男性门徒是在加利利。

どうしてガリラヤなのか。

 为什么是加利利呢?

ガリラヤは弟子たちが弟子になる前に生活していたところ。

 加利利是门徒在成为门徒之前生活的地方。

そして、そこでイエスの弟子になったところ。

 而且,也是在那里做了耶稣的门徒。

復活のイエスは、そこで弟子たちに出会ってくださる。

 复活的耶稣要在那里见门徒。

スタートしたところから、もう一度やり直してくださる。

 从开始的地方,又一次重新来过。

今、弟子たちは、弟子であるとは言えないようなことになってしまっている。

 目前,门徒已经称不上门徒了,是这样的一种状况。

しかし、イエスは一度選んだ弟子を見捨てない。

 可是,一旦拣选了的门徒,耶稣是不会舍弃的。

やり直させてくださる。

 让他们重新来过。

少し後のところを読むと、その場所は、山だった。

 读稍微后面一点的地方,就知道见面的地方是山上。

そこはもしかすると、この福音書だと5章になるが、イエスが最初に長い説教をした山だったかもしれない。

 那里有可能是这本福音书的第5章,耶稣一开始讲很多道的那座山。

そこから、弟子たちはリスタートすることになる。

 门徒从那里重新开始。

それも、その場所に、イエスは先に行って待ってくださっている。

 这也是耶稣先去了那个地方等。

安心して行ける。

 可以安心地去。

喜んで行ける。

 喜乐地去。

 

 

ただ、そうなる前に、イエスはこの女性たちにはここで出会ってくださる。

 不过,在这之前,耶稣在这里见了这些妇女。

イエスは女性たちにあいさつをした。

 耶稣问候了他们。

「おはよう」と書かれている。

 经上写的是“早上好”。

珍しい言葉。

 很难得的话。

イエスがあいさつする場面は他にもある。

 耶稣打招呼的场景其它地方也有。

しかし、他のところでは、「おはよう」とは書かれていなくて、「あなたがたに平和があるように」と書かれている。

 可是,在其它地方写的不是“早上好”,写的是“愿你们平安!”

「あなたがたに平和があるように」というのは、イエスが話した言葉、ヘブライ語のあいさつの言葉。

耶稣所说的 “愿你们平安”,是希伯来语的问候语。

あいさつの言葉だから、日本語で「おはよう」と訳してもいいけれども、福音書を書いた弟子たちは、それをギリシャ語でそのまま、「あなたがたに平和があるように」と書いた。

 因为是问候语,所以用日语翻成“早上好”也可以,但是写福音书的门徒就这样把这话用希腊语写成了“愿你们平安”。

それに対して、今日のあいさつの言葉は、ギリシャ語のあいさつの言葉がそのまま書かれている。

 相对于此,今天这里的问候语,是用希腊语的问候语直接写的。

だから、日本語に訳す時に、今は朝なので、「おはよう」と訳した。

 所以,用日语翻译的时候,因为是早上,所以翻成了“早上好”。

ただ、その言葉は、あいさつの言葉だが、ストレートに訳すと、「喜びなさい」という言葉。

 不过,这话虽然是问候语,直译的话,是“要喜乐”的意思。

イエスの復活を知って、恐れながらも大いに喜んだ女性たちに、「喜びなさい」。

 对知道耶稣复活,又害怕又大大欢喜的妇人们说“要喜乐”。

そして、この言葉は、ユダがイエスを裏切る時に、イエスに言った、「こんばんは」という言葉も同じ言葉。

 而这话和犹大背叛耶稣的时候,对耶稣说的“晚上好”是同样的词。

イエスが十字架にかけられる前に、ローマ帝国の兵隊たちがイエスをバカにして「ユダヤ人の王、万歳」、と言った、「万歳」という言葉も同じ言葉。

 耶稣被钉十字架之前,罗马帝国的兵丁戏弄耶稣说“犹大人的王,万岁!”,“万岁”也是同样的词。

人間は心の中にあることと全く逆のことを言う。

 人说的是和内心想的完全不一样的话。

イエスの言葉は心のままの言葉。

 耶稣说的就是心里的话。

そして、その言葉が実現する。

 而且,这话应验了。

 

 

もう恐れもなくなって、大喜びした女性たちは、イエスの足を抱いて、ひれ伏した。

 已经不再害怕,大大欢喜的的妇人们,抱住耶稣的脚拜他。

礼拝した。

 礼拜了。

そして、礼拝した後、何をするか。

 礼拜后,又做了什么呢?

喜びの知らせを伝えに行く。

 去传达喜乐的消息。

伝道ということ。

 就是传道。

喜んで礼拝した人が、伝道に出ていく。

 欢欢喜喜礼拜的人,出去传道。

今、皆さんは喜んでいますか?

 大家现在喜乐吗?

喜んでほしい。

 愿大家喜乐。

私たちの神が私たちの兄であるイエスを復活させた。

 我们的神让我们的弟兄耶稣复活了。

 

 

そして、女性たちが伝道しに行ったということ。

 接着,妇人们去传道了。

これはすごいことではないか。

 这很了不起,不是吗?

後で、男性の弟子たちはガリラヤでイエスに会って、そこで、伝道しなさいと言われるけれども、それよりも先に、女性たちの伝道があった。

 之后,男门徒在加利利见耶稣,耶稣在那里说他们要传道,而在这之前,妇人们就已经传道了。

喜んだのも、礼拝したのも、女性たちが先だった。

 喜乐也是,礼拜也是,都是妇人们先。

だから、伝道も先。

 所以,传道也是她们先。

そして、一番最初はどうだったかと言うと、女性たちは、墓をずっと見ていた。

 而且,最初的时候,妇人们一直盯着坟墓看。

墓をずっと見る。

 一直看着坟墓。

自分の力の無さをずっと感じ続けた。

 一直都感受到了自己的无能为力。

そこから、喜びに変えられて、礼拝に招かれて、伝道に出ていく。

 从无力感变为喜乐,又被召礼拜,再出去传道。

男性の弟子たちはどうしてそうならなかったか。

 男门徒为什么没有如此呢?

男性の弟子たちは、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。

他们房门紧锁,关在里面。

自分が情けないな、自分はだめな人間だなとは思っていただろう。

 觉得自己很可怜,自己不行吧。

しかし、部屋に鍵をかけて閉じこもっているとはどういうことか。

 可是,房门紧锁,关在里面算怎么一回事呢?

自分で自分を守ろうとしている。

 是自己在守护自己。

弟子たちは、自分に力が無いことを十分には知っていない。

 门徒完全不知道自己的无能为力。

私たちも、自分の力の無さを知らなくてはいけない。

 我们也必须要知道自己的无能为力。

それがスタートになる。

 这是开始。

 

 

後のところは、婦人たちと同じものを見たはずの兵隊たちの話。

 后面是应该和妇人们看到了同样情况的兵丁们的内容。

兵士たちは、すべてを報告した。

 他们把一切都上报了。

けれども、祭司長たちは人間の間の力関係の話しかしていない。

 可是,祭司长他们只是讨论了人之间的利害关系。

兵士も、お金をもらってその通りにする。

 兵丁们也是,拿了钱照着做了。

何より、この祭司長たちの言葉は何か。

 重要的是,这些祭司长说了什么。

もし、祭司長たちが、兵士たちの言葉を信じていなかったのなら、兵士たちに怒るだろう。

 如果祭司长他们不相信兵丁的话,那么他们会对兵丁发火吧。

怒っていない。

 可是却没有。

こういうことにしておこう。

 要这样说。

兵士たちの話を受け入れている。

 其实是接受了兵丁所说的。

けれども、神の力を受け入れない。

 但是,不接受神的大能。

祭司長たちは兵士たちに、もしローマ帝国の総督に知られても、うまく総督を説得すると言っている。

 祭司长他们对兵丁说,即使被罗马帝国的总督知道了,也能很好地说服他们。

どうやって説得するのか。

 如何说服呢?

総督のポンテオ・ピラトはお金に弱い人だった。

 总督本丢・彼拉多是个对钱没有抵抗力的人。

この世の力の話とお金の話。

 世俗的权利和金钱。

それが入り込んでくると、神の力は押し出されてしまう。

 这些一旦介入,神的大能就被排挤了。

 

 

大事なのは、まず、私たちが、自分に力が無いということに気づくこと。

 重要的是,我们首先要意识到自己的无力。

自分には何もできないことがあるということに気づくこと。

 意识到自己有无能为力的事。

それに気づけなかったら、結局、人間の力と金の力になる。

 意识不到这点的话,最终会被权势和金钱操控。

この世の人たちは、人間の力と金の力だけで生きている。

 世上的人,只依靠权势和金钱过活。

しかし、私たちは、今日の女性たちと一緒にいたい。

 可是,希望我们和今天的这些妇人一起。

じっと墓を見る。

 一直盯着坟墓。

そんなことをしていても何も起こらないが、それは人間の考え。

 就算这样做也不会有什么发生,这是人的思维。

神はそこに、神の力を現してくださる。

 神会在那里彰显神的大能。

私たちは、イエスの兄弟だから。

 因为我们是耶稣的弟兄。

イエスの兄弟は、自分の力を無くしてしまったところから、神の力で復活させられて、伝道に出ていく。

 耶稣的弟兄会在自己的能力消失殆尽的地方,因着神的大能得以恢复,进而出去传道。

女性たちも、何の力もなかったところから、復活した。

 妇人们也是从无能为力的地方复活的。

イエスの復活は、私たちの復活。

 耶稣的复活就是我们的复活。

私たちは、復活しただろうか。

 我们复活了吗?

復活するためには、一度死ななくてはならない。

 为了复活,必须要死一次。

私たちは、人間の力と金の力に死んだか。

 我们死于人的权势和金钱了吗?

私たちは、神の前にそう言えるだろうか。

 我们能在神的面前这么说吗?

死んだ人を、イエスは復活させる。

 耶稣让死人复活。

喜びにあふれさせて、礼拝に招き、伝道に押し出す。

 使他们满了喜乐,招去礼拜,并派去传道。

それが私たち。

 这就是我们。

人間の力も、金の力も、どうでもいい。

 权势、金钱什么都无所谓。

神の力はこの世のすべてを超える力。

 神的大能超乎世上的一切。

その力が私たちを伝道に押し出していく。

 这大能把我们派出去传道。

伝道に出ていこう。

 出去传道吧。

神の力は、私たちと共にある。

 神的大能与我们同在。

伝道と言っても、何か難しいことを話すわけではない。

 虽说是传道,并不是什么难事。

女性たちも、この後の弟子たちも、したことは同じ。

 和妇人以及之后的门徒所做的是一样的。

証しすること。

 是做见证。

そして、神は人が証しすることができるようにしてくださる。

 而且,神可以让我们作见证。

そこまで含めて、すべて神の力。

 包括这点,一切都是神的大能。

 

 

설교·부활

 

(마태복음 28 1절에서 15)

 

 

 

날은 첫날이었다고 하니 일요일.

 

일요일에 여자들이 예수의 무덤에 갔다.

 

그리고 여인에게 부활한 예수가 와주신다.

 

그때 9절에서 여자들은 예수의 다리를 안고 예수 앞에 엎드렸다.

 

다리를 안았다면 물론 넙죽 엎드렸겠지만 일부러 여기서 넙죽 엎드린다는 말이 사용된다.

 

넙죽 엎드린다는 말은 나중에야 예배드린다는 뜻이 됐다.

 

그래서 우리는 일요일에 예배를 드린다.

 

일요일은 부활의 예수를 만나는 .

 

 

 

그러나 여성들에게 일요일이 처음부터 기쁨의 날은 아니었다.

 

여자들은 예수의 무덤을 보러 갔다.

 

본다는 말은 가만히 본다는 .

 

여자들은 그저 무덤만 있을 뿐이다.

 

이날 이틀 여성은 예수의 몸이 무덤에 묻히는 곳에 있었다.

 

, 여인들은 무엇을 하고 있었는가.

 

다른 사람이 돌아간 뒤에도 무덤 쪽을 향해 앉아 있었다.

 

그리고 오늘도 무덤을 보기 위해 무덤에 간다.

 

여자들에겐 그렇게밖에 못해.

 

이제 사람들은 정상적인 생활을 없게 되었다.

 

그리고 막달라 마리아와 명의 마리아이지만 명의 마리아라고 하는 것은 예수의 어머니 마리아였다고도 한다.

 

도대체 어떤 기분이었을까.

 

 

 

여기에 신의 힘이 나타난다.

 

지진이 일어나다.

 

천사가 하늘에서 내려온다.

 

그리고 천사가 무덤의 돌을 굴렸다.

 

예수가 죽었을 때에도 지진이 일어났다.

 

그렇다면 부활 때도 지진이 일어난 것은 세트로 되어 있는 사건일까 하고 생각한다.

 

그러나 장면은 예수가 부활한 장면이 아니다.

 

예수는 이미 부활해 있었다.

 

천사들이 돌을 굴렸다.

 

무덤 속에 예수는 없었다.

 

지진이 일어난 것은 예수가 부활했기 때문이 아니다.

 

천사가 내려온다는 것만으로 지진이 일어났다.

 

신이 독한 마음으로 여자들에게 말을 하려 한단 말인가.

 

그러나 천사가 말은 여자들에게 전하기보다 제자들에게 직접 전해야 같은 얘기.

 

그것을 일부러, 여성들에게 전한 것에, 신의 강한 마음이 있다.

 

제자들보다 슬퍼했을 여성들에게 번째로 부활을 알리고 싶다.

 

사람들이 제일 먼저 좋아했으면 좋겠다.

 

신은 사람들이 기뻐하기를 바란다.

 

 

 

다만 여자들은 처음엔 당연히 두려웠다.

 

자리에는 무덤을 지키는 병정도 있었지만 병정들은 무서워서 굳어버렸다.

 

천사는 여성들에게 두려울 없다고 말했다.

 

말은 너희는 두려워 말라는 .

 

군인들은 두려워하지 않아도 된다. (서양속담, 용기속담)

 

너희들 때문에 거야.

 

 

 

천사는 이어 예수가 부활했음을 알렸다.

 

부활하신 것이다라고 하지만 이는 부활하신 것이다라는 .

 

예수는 부활하셨다.

 

신이 예수를 부활시켰다.

 

예수가 스스로의 힘으로 부활한 것은 아니다.

 

신이 예수를 부활시켰다.

 

그리고 하느님은 예수만의 하느님이 아니라 믿는 모든 하느님.

 

물론 여자들의 신이기도 하다.

 

그리고 여성들은 예수를 부활시킨 신의 힘을 믿을 있다.

 

예수가 죽었을 때처럼 이때도 지진이 일어났다.

 

신은 모든 것을 힘있는 손아귀에 놓고 계시다.

 

신이 예수를 부활시켰다.

 

 

 

그리고 여성들에게 일자리가 주어진다.

 

급히 가서 제자들에게 이렇게 아뢰라.

 

그것은 제자들에게 부활을 알리는 .

 

그리고 갈릴라야로 가라는 .

 

그러나 제자들은 어떤 사람들이었던가.

 

제자들은 지금은 모두 도망쳐서 집안을 잠그고 틀어박혀 있다.

 

인간의 눈으로 본다면 이것은 이미 제자가 아니다.

 

그래도 천사는 제자라고 한다.

 

어찌 제자라 있겠는가.

 

도망간다 해도 제자들이 예수가 선택한 제자들이라는 점은 변하지 않는다.

 

제자들이라는 말은 원문으로는 그의 제자들이라는 말이다.

 

예수가 뽑은 예수의 제자

 

우리도 똑같은

 

예수가 선택하고, 예수가 불러 주셨기 때문에, 지금, 우리는 예배올 있다.

 

어제까지의 우리가 어떠했더라도 예수가 선택했으니까 우리도 예수의 제자.

 

오히려 예수님은 나중에 여자들을 만나주셔서 천사가 말과 똑같은 말을 하는데 10절에서 제자들을 나의 형제들이라고 한다.

 

예수의 제자가 되는 것은 예수의 형제가 되는 것이다.

 

그리고 형제라는 것은 평생 변하지 않는 .

 

제자는 제자가 아니게 되는 경우가 실제로 있다.

 

근데 형제는 사이가 나빠져도 형제

 

평생 형제임에는 변함이 없다.

 

 

 

다만 예수가 제자들을 만나는 곳은 갈릴랴에서.

 

여성들에게는, 예수님은 잠시 만나주시지만, 남성의 제자들을 만나는 것은 갈릴랴에서.

 

갈릴리야일까?

 

갈릴라는 제자들이 제자가 되기 전에 생활하던 .

 

그리고 거기서 예수의 제자가 .

 

부활의 예수님은 그곳에서 제자들을 만나 주신다.

 

시작부터 다시 주신다.

 

지금, 제자들은, 제자라고 말할 없는 것이 되어 버렸다.

 

그러나 예수는 한번 뽑은 제자를 버리지 않는다.

 

다시 하게 해주시다.

 

조금 뒤쪽을 보니 장소는 산이었다.

 

그곳은 어쩌면 복음서라면 다섯 장이 되지만 예수가 최초로 설교를 했던 산이었는지도 모른다.

 

여기서부터 제자들은 재출발하게 된다.

 

그것도 자리에 예수님이 먼저 가셔서 기다리고 계시다.

 

안심하고 있다.

 

기꺼이 있다.

 

 

 

다만 그렇게 되기 전에 예수님이 여자들을 이곳에서 만나 주신다.

 

예수는 여자들에게 인사를 했다.

 

'안녕'이라고 적혀 있다.

 

희한한

 

예수가 인사하는 장면은 있다.

 

그러나 다른 곳에는 안녕하세요라고 적혀 있지 않고 당신에게 평화가 있기를이라고 적혀 있다.

 

너희에게 평화가 있기를이란 예수가 하신 말씀, 히브리어의 인사말.

 

인사말이니 일본어로 안녕하세요라고 번역해도 되지만 복음서를 제자들은 그것을 그리스어로 그대로 당신에게 평화가 있기를이라고 썼다.

 

그에 비해, 오늘의 인사말은, 그리스어의 인사의 말이 그대로 쓰여져 있다.

 

그래서 일본어로 번역할때에 지금은 아침이므로, '안녕'이라고 번역했다.

 

단지, 말은, 인사의 말이지만, 직설적으로 번역하면, 기뻐해라라고 하는 .

 

예수의 부활을 알고 두려워하면서도 크게 기뻐한 여성들에게 기뻐하라.

 

그리고 말은 유다가 예수를 배신할 예수에게 했던 안녕하세요라는 말도 같은 말이다.

 

예수가 십자가에 못박히기 로마제국 병정들이 예수를 바보로 삼아 유대인의 만세라고 했다, 만세라는 말도 같은 말이다.

 

인간은 마음속에 있는 것과 정반대를 말한다.

 

예수의 말은 마음먹은 대로의 .

 

그리고 말이 실현된다.

 

 

 

두려움 없이 기뻐하던 여인들은 예수의 다리를 안고 엎드렸다.

 

예배 드렸어.

 

그리고 예배를 무엇을 하느냐.

 

기쁨의 소식을 전하러 가다.

 

전도라는

 

반갑게 예배를 드린 사람이 전도로 나간다.

 

지금 여러분들은 좋아하시나요?

 

좋아했으면 좋겠다.

 

우리 하느님이 우리의 형인 예수를 부활시켰다.

 

 

 

그리고 여자들이 전도하러 갔다는 .

 

이건 굉장한 일이 아닌가.

 

나중에 남자 제자들은 갈릴라야에서 예수를 만나고 그곳에서 전도하라고 하지만 그보다 먼저 여자들의 전도가 있었다.

 

기뻐한 것도, 예배드린 것도 여자들이 먼저였다.

 

그래서 전도도 먼저.

 

그리고 처음에는 어땠냐면 여자들은 무덤을 계속 쳐다보고 있었다.

 

무덤을 보다.

 

힘이 없음을 계속 느꼈다.

 

거기서부터 기쁨으로 바뀌어 예배에 초대되어 전도에 나간다.

 

남자 제자들은 그렇게 되지 않았을까.

 

남자 제자들은 방문을 걸어 잠그고 틀어박혀 있었다.

 

자기가 한심하구나, 자기가 사람이구나 라고 생각했었잖아.

 

그런데 문을 잠그고 틀어박혀 있다니.

 

스스로 자신을 지키려 하고 있다.

 

제자들은 자신이 힘이 없음을 충분히 알지 못한다.

 

우리도 자신의 힘이 없음을 알아야 한다.

 

그게 시작이 된다.

 

 

 

나머지는 부인들과 똑같은 것을 보았을 병사들.

 

병사들은 모든 것을 보고했다.

 

그러나 제사장들은 인간들간의 역학관계 이야기만 한다.

 

병사도 돈을 받고 그대로 한다.

 

무엇보다 제사장들의 말은 무엇일까.

 

만약 제사장들이 병사들의 말을 믿지 않는다면 병사들에게 화를 것이다.

 

화나지 않았어.

 

이렇게 해놓자

 

병사들의 말을 받아들인다.

 

하지만 신의 힘을 받아들이지 않는다.

 

제사장들은 병사들에게 만약 로마제국의 총독으로 알려지더라도 능히 총독을 설득하겠다고 한다.

 

어떻게 설득하느냐.

 

총독 폰테오 필라트는 돈에 약한 사람이었다.

 

세상의 이야기와 이야기

 

그것이 파고들면 신의 힘은 밀려나고 만다.

 

 

 

중요한 것은, 우선 우리가 자신에게 힘이 없다는 것을 깨닫는 것이다.

 

스스로는 아무것도 없는 일이 있다는 것을 깨달아라.

 

그걸 모른다면 결국 인간의 힘과 돈의 힘이 된다.

 

세상 사람들은 인간의 힘과 돈의 힘만으로 산다.

 

하지만 우리는 오늘의 여자들과 함께 있고 싶어요.

 

가만히 무덤을 보다.

 

그런 짓을 해도 아무 일도 일어나지 않지만, 그것은 인간의 생각.

 

신은 거기에 신의 힘을 나타내 주신다.

 

우리는 예수의 형제니까.

 

예수 형제는 자신의 힘을 잃어버린 곳에서 신의 힘으로 부활되어 전도로 나간다.

 

여성들도 아무런 힘이 없던 곳에서 부활했다.

 

예수의 부활은 우리의 부활.

 

우리는 부활했을까.

 

부활하려면 한번 죽어야 한다.

 

우리는 인간의 힘과 돈의 힘에 죽었는가.

 

우리는 앞에 그렇게 말할 있을까.

 

예수는 죽은 사람을 부활시킨다.

 

기쁨에 넘쳐 예배에 초대하고 전도에 밀어낸다.

 

그게 우리

 

인간의 힘도, 돈의 힘도, 아무래도 좋다.

 

신의 힘은 세상의 모든 것을 초월하는 .

 

힘이 우리를 전도로 밀어낸다.

 

전도로 나가자

 

신의 힘은 우리와 함께 있다.

 

전도라고 해서 어려운 말하는 아니다.

 

여자들도, 이후의 제자들도 하기는 마찬가지다.

 

증명할

 

그리고 신은 사람이 증거할 있게 주신다.

 

거기까지 포함해서 신의