わたしはいつも共にいる
我常与你们同在
マタイによる福音書28章16節から20節
马太福音28章16-20节
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
十一个门徒往加利利去,到了耶稣约定的山上。他们见了耶稣就拜他,然而还有人疑惑。耶稣进前来,对他们说:“天上地下所有的权柄都赐给我了。所以,你们要去使万民作我的门徒,奉父、子、圣灵的名给他们施洗。凡我所吩咐你们的,都教训他们遵守,我就常与你们同在,直到世界的末了。
弟子たちはガリラヤに行った。
门徒往加利利去。
ガリラヤは弟子たちがもともと住んでいた地方。
加利利是门徒原来居住的地方。
その場所に戻って、山に登る。
回到那里,上了山。
山に登って、イエスが弟子たちに話をする、と聞くと、イエスが最初に長い説教をしたのも山の上だったことを思い出す。
一听到上了山,耶稣对门徒说话,就会回想起耶稣最早的长篇讲道也是在山上。
ここからリスタート。
从这里重新开始。
この弟子たちは、イエスが逮捕された時に逃げ出していた弟子たち。
这些门徒是耶稣被捕时逃跑的门徒。
その弟子たちにイエスが出会ってくださる。
耶稣去见那些门徒。
イエスは弟子たちを怒ったりしない。
耶稣没有生门徒的气。
弟子たちも、イエスに謝っていない。
门徒也没有向耶稣谢罪。
謝らないで何をしたか。
没有道歉,那么做了什么呢?
「ひれ伏した」。
“跪拜他”。
この言葉は、礼拝する、という意味になる言葉。
是礼拜的意思。
弟子たちがイエスを礼拝するのは、これが初めて。
门徒拜耶稣,这是第一次。
逃げ出していた弟子たちが、イエスを礼拝していいのか。
逃跑的门徒,行礼拜见耶稣可以吗?
良い。
可以。
イエスが弟子たちをここに呼んだ。
耶稣呼召门徒来到这里。
弟子たちはそれに応えてこの場所に来た。
门徒回应呼召来到这里。
これで良い。
这就行了。
私たちも同じ。
我们也是。
私たちにも罪がある。
我们也有罪。
しかし、イエスはその私たちを呼んでくださる。
可是,耶稣呼召了有罪的我们。
だから、私たちはこのようにして今、礼拝している。
因此,我们像现在这样在礼拜。
私たちと弟子たちの間に違いはない。
我们和门徒没有差别。
私たちも、イエスより自分を大事にすることがある。
我们也是,相比耶稣,更看重自己。
それは、弟子たちが逃げ出したのと同じ。
这点和门徒出逃是一样的。
でも、礼拝に呼ばれている。
但是,被呼召去礼拜了。
ただ、弟子たちとしては、逃げ出してしまったことがあるから、イエスに会うとどうしていいか分からないということがあったらしい。
只是对于门徒来说,因为逃跑了,所以见了耶稣似乎不知道该如何是好。
この前の場面で、女性たちがイエスにひれ伏した、礼拝した、ということがあった。
在前面的内容中个,妇人们向耶稣跪拜,也就是礼拜了。
その時、女性たちは、イエスの足を抱いて、礼拝した。
当时,妇人们抱着耶稣的脚拜他。
しかし、今日、弟子たちは、イエスから少し離れてイエスを礼拝したらしい。
可是,今天,门徒似乎是稍离耶稣一点拜他的。
18節に、イエスが弟子たちに近寄ったと書かれている。
18节写到,耶稣进前来到门徒那里。
近寄ったということは、離れていたということ。
近前就是说有距离。
弟子たちは、自分からイエスに近づくことができなかった。
门徒无法自己靠近耶稣。
イエスに気づいた時、その場でひれ伏した。
知道了是耶稣,就当场跪拜了。
しかし、その弟子たちに、イエスの方から近づいてきてくださる。
可是,耶稣自己向这些门徒靠近。
ただ、弟子たちの中には、疑う者もいた。
只是,在门徒中间,也有人疑惑。
しかし、こういうことが書かれているのはとても大事なこと。
但是,这种事情写下来也是非常重要的。
イエスは、疑う者を帰らせる、ということはないということ。
耶稣没有让有疑虑的人回去。
疑う者も、弟子。
有疑虑的也是门徒。
そして、この十一人の弟子たちは皆、この後、殉教を恐れずに伝道していった。
而且,这十一个门徒后来全都不畏殉道去传道了。
疑ってもいい。
有疑虑不要紧。
イエスは私たちを、信じられるようにしてくださるということ。
耶稣会让我们相信的。
それがイエスとの出会いであり、礼拝。
这就是与耶稣的相会,礼拜。
弟子たちの側に立ったイエスは、弟子たちに話しかける。
站到门徒那边去的耶稣,跟门徒说话了。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。
“天上地下所有的权柄都赐给我了。”
すべての権能(authority/power)。
所有的权柄。
復活というのはそういうこと。
复活就是。
この世にはいろんな権能がある。
这世间有许多的权柄。
どの人も、いろんな権能の元に置かれている。
不管谁,都置身于各种权柄中。
会社の中でも、学校の中でも、社会全体でも、世界全体でも、いろんな権能が働いている。
公司,学校,全社会,全世界,都是各样的权柄在运作。
世界を見ると、この人は自分一人でこんなことを決めて、国を動かすこともできるのかと驚くような権能もある。
纵观世界,有人自己一个人决定事情,使国家运转起来,这般令人震惊的权柄都有。
しかし、そんな人も、死から逃れることはできない。
可是,即便是这样的人也无法逃脱死亡。
死には、この世で最高の権能があると言える。
可以说,死亡是这世间最高的权柄。
しかし、イエスは死に勝利した。
可是,耶稣胜过了死。
つまり、復活の命というのは、最高の権能を授かったということ。
也就是说,复活的生命就是授予了他最高的权柄。
だから、その次のところで、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われている。
因此,接下来说,“你们要去使万民作我的门徒。”
イエスには最高の権能がある。
耶稣有最高的权柄。
この世の人たちにも、大きな権能を持っている人はいるが、最高の権能がイエスにある。
世上也有人拥有很大的权柄,但是耶稣拥有最高的权柄。
だから、すべての人は当然、イエスの元に置かれるのが正しい。
因此,所有的人回到耶稣那里,自然是正确的。
そして、イエスは、すべての民を足の下に置いてやる、と言ったのではない。
而且,耶稣没有说要把万民置于他的脚下。
すべての民を弟子にしなさい。
使万民作他的门徒。
イエスは、自分の権能をふりかざして、自分の奴隷を作りたいのではない。
耶稣不会滥用自己的权柄,把人变成自己的奴隶。
信者を作りたいと言ったのでもない。
也没有说要信他的人。
弟子を作りたい。
他想要门徒。
続けて、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われている。
接着说,“奉父、子、圣灵的名给他们施洗,凡我吩咐你们的,都教训他们遵守。”
実はこの、洗礼を授けるという言葉も、教えるという言葉も、弟子たちに対して「あなたがたは行って」というときの行くという言葉も、全部、弟子にしなさいという言葉につながっている。
实际上,这里的施洗,教导,以及对门徒说“你们要去”时候所说的话,全都与作我的门徒相关联。
弟子たちが出かけていくのも、洗礼を授けるのも教えるのも、その人を弟子にするため。
门徒出去、施洗、教导,都是为了使那些人成为门徒。
弟子というのはどういう人か。
门徒是怎样的人呢?
洗礼を受けて、イエスの言葉を守る人。
受洗,遵守耶稣话语的人。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように」と言われているが、イエスは普通、弟子たちに命令することはなかった。
虽然说的是“凡我所吩咐你们的,都教训他们遵守”,耶稣一般不会给门徒下命令。
イエスが命令したとはっきり言えるのは、「互いに愛し合いなさい」ということだけ。
可以很明确的说是耶稣下了命令的话,只有“你们要彼此相爱”。
その他のイエスの言葉は、基本的に命令ではない。
其它耶稣的话语,基本都不是命令。
ただ、イエスはいつも、この世の聖書の先生たちとは違う言葉を語った。
不过,耶稣总是和世上教导圣经的老师们说不一样的话。
この世の聖書の先生たちは、聖書の言葉を理解して、説明する。
世上的圣经先生,他们先自己弄明白圣经的话语,再去说明。
それに対してイエスは、神の子として、神の御心を伝えた。
相对的,耶稣作为神的儿子,传达的是神的心意。
イエスの言葉には権威がある。
耶稣的话语中有权柄。
それは、無理やり人に何かをさせるようなことではなく、イエスの言葉には真実がある。
这并不是说强迫让人去干什么,耶稣的话语中有真实。
だから、その言葉を守るのが正しいということ。
所以,遵守他的话语是正确的。
その言葉を守ることが、自分を守ることになる。
遵守这些话语,就能保守自己。
しかし、この弟子たちが人にそんなことを教えることができるだろうか。
可是,门徒能教导人这些吗?
この弟子たちは、イエスの言葉を守れなかったどころか、逃げ出した弟子たち。
这些门徒不要说遵守耶稣的话语了,根本就是出逃的门徒。
この弟子たちが、人に教えていいのか。
这些门徒去教导人行吗?
良い。
可以。
最後の言葉。
最后的话语:
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
“我常与你们同在,直到世界的末了。”
イエスが共にいてくださる。
耶稣会与我们同在。
最高の権能を持っておられる方が、共にいてくださる。
拥有最高权柄的那一位,会与我们同在。
そうなるともう、その人がどんな人なのかは問題ではない。
这样的话,这人是什么样的人已经不是问题了。
イエスはこの後、天に昇って行かれる。
耶稣之后就升天了。
しかし、入れ替わりに、弟子たちに聖霊が降ってくる。
但是降圣灵在门徒身上作为替代。
私たちも、洗礼を受けた時に聖霊をいただいた。
我们也是,在受洗的时候得着了圣灵。
洗礼を受けるとはそういうこと。
受洗指的就是这个。
今はイエスは、聖霊という形で、私たちと共にいてくださっている。
此刻,耶稣以圣灵的形式与我们同在。
そして、「父と子と聖霊の名によって」と言われているが、父と子と聖霊はお一人の神。
而且,虽然说的是“奉父、子、圣灵的名”,父、子、圣灵是同一位神。
だから、「父と子と聖霊の名によって」の「名」という言葉は、原文では、それが一つであることを現す言い方。
所以,“奉父、子、圣灵的名”中的“名”在原文中是合为一的说法。
そして、世の終わりには、イエスは天から私たちのところにいらしてくださる。
而且,在世界的末了,耶稣会从天而降,来到我们这里。
今、私たちの内に聖霊がおられて、世の終わりにはイエスが再び来てくださる。
现在,我们的里面有圣灵,到世界的末了,耶稣会再来。
つまり、イエスの弟子は、イエスと離れることがない。
就是说,耶稣的门徒,不会和耶稣分开。
どんな時も、すべての権能を持つ方が私たちと一緒にいてくださる。
无论何时,拥有所有的权柄的那一位都与我们同在。
どんな時も、離れない。
什么时候都不会分开。
それが私たち。
这就是我们。
そして、この話の順番に気を付けたい。
而且,希望大家注意这话的顺序。
わたしはいつも共にいる、と言ってから、だから、伝道に行きなさいと言われたのではない。
不是在说了我常与你们同在之后,再说,因此,你们要去传道。
行きなさいと言われて、最後に、わたしはいつも共にいる。
先说你们要去,最后才是我常与你们同在。
イエスが共にいてくださることを私たちが本当に感じることができるのは、私たちが出ていったところで。
我们能真正感受到耶稣与我们同在,是在我们出去传道的时候。
私たちが、その人その人のところに遣わされて、その人を弟子にするために働く中で、私たちは、イエスが共にいてくださることを知る。
我们被差遣到人那里,在为使那人成为门徒而做工的过程中,我们会知晓耶稣与我们同在。
イエスの権能がそこに現れる。
在那里,耶稣的权柄会显现。
天と地の一切の権能が、そこに現れる。
天上地下所有的权柄会在那里显现。
だからこそ、教会は世界中に広がった。
正因为如此,教会在全世界扩大。
自分の先生を見捨てて逃げ出した弟子たちが始めたことが、世界中に広がった。
丢下自己的老师而逃跑的门徒他们开创的事业,在全世界扩大。
それが、イエスの権能が天と地の一切の権能であるという証拠。
这就是耶稣的权柄是天上地下所有的权柄的证明。
その力が、ここに教会を建てた。
这大能在这里建了教会。
私たちは、イエスの権能の現れたこの教会で、今、礼拝している。
我们现在正在耶稣权柄显现的教会礼拜。
そして、弟子たちは、イエスを礼拝してから、伝道に出ていく。
而且,门徒敬拜耶稣之后,就出去传道了。
私たちも同じ。
我们也一样。
この礼拝から伝道に出ていく。
礼拜之后出去传道。
そこに、イエスの権能が現れる。
在那里,耶稣的权柄会显现。
自分を一番にしてしまう私たち。
把自己看为最重的我们。
疑うこともある私たち。
也存有疑惑的我们。
でも、安心していい。
但是,放心就好。
イエスがおられる。
因为有耶稣同在。
나는 언제나 함께 있어
제자들은 갈릴라야로 갔다.
갈릴라는 제자들이 원래 살던 지방.
다시 제자리로 돌아가 산을 오른다.
산에 올라 예수가 제자들에게 말씀을 하신다고 하니 예수가 처음 긴 설교를 했던 것도 산 위였던 일이 생각난다.
여기서부터 재시작.
이 제자들은 예수가 체포됐을 때 도망가던 제자들.
그 제자들에게 예수가 만나주신다.
예수는 제자들을 꾸짖지 않는다.
제자들도 예수에게 사과하지 않았다.
사과하지 않고 무엇을 했느냐?
「부복했다」.
이 말은 예배드린다는 뜻이 되는 말.
제자들이 예수를 예배하는 것은 이번이 처음이다.
도망가던 제자들이 예수를 예배해도 되는 것인가.
좋다
예수가 제자들을 이곳으로 불렀다.
제자들은 이에 부응하여 이 자리에 왔다.
이거면 돼.
우리도 마찬가지.
우리도 죄가 있다.
하지만 예수님은 그런 우리를 불러주신다.
그래서 우리는 이렇게 지금 예배를 드리고 있다.
우리와 제자들 사이에 틀림없다.
우리도 예수보다 자신을 더 소중하게 여길 때가 있다.
그것은 제자들이 도망친 것과 같다.
하지만 예배에 불리고 있다.
단지, 제자들로서는, 도망쳐 버린 적이 있기 때문에, 예수를 만나면 어쩔 줄 모르는 것이 있었던 것 같다.
얼마 전 장면에서 여자들이 예수께 엎드려 절한 일이 있었다.
그때 여인들은 예수의 발을 안고 예배를 드렸다.
그러나 오늘날 제자들은 예수에게서 조금 떨어져 예수를 예배한 것 같다.
18절에 예수가 제자들에게 다가갔다고 적혀 있다.
가까이 왔다는 것은 떨어져 있었다는 것.
제자들은 스스로 예수에게 다가갈 수 없었다.
예수를 알았을 때 그 자리에서 엎드렸다.
하지만 그 제자들에게 예수 쪽에서 다가온다.
다만 제자들 중에는 의심하는 사람도 있었다.
하지만 이런 게 적혀있는 건 아주 중요한 일.
예수는 의심하는 자를 돌아오게 하지 않는다.
의심하는 자도 제자.
그리고 이 열한 명의 제자들은 모두 얼마 후 순교를 두려워하지 않고 전도해 나갔다.
의심해도 돼.
예수님은 우리를 믿을 수 있게 해주신다는 거.
그것이 예수와의 만남이고 예배.
제자들 편에 선 예수는 제자들에게 말을 건다.
나는 하늘과 땅의 일체의 권능을 부여받았다.
모든 권능(authority/power).
부활이란 그런 것.
세상에는 여러 가지 권능이 있다.
누구나 여러 권능의 아래에 놓여 있다.
회사 안에서도, 학교 안에서도, 사회 전체에서도, 세계 전체에서도, 여러가지 권능이 일하고 있다.
세계를 보면 이 사람이 자기 혼자서 이런 일을 결정하고 나라를 움직일 수 있는지 놀랄 만한 권능도 있다.
그러나 그런 사람도 죽음에서 벗어날 수 없다.
죽음에는 이 세상에서 최고의 권능이 있다고 할 수 있다.
그러나 예수는 죽음으로 승리했다.
즉 부활의 생명이라는 것은 최고의 권능을 부여받았다는 것이다.
그래서 그 다음 부분에서 너희는 가서 모든 백성을 나의 제자로 삼으라라고 한다.
예수에게는 최고의 권능이 있다.
세상 사람들에게도 큰 권능을 가진 사람은 있지만 최고의 권능이 예수에게 있다.
그러므로 모든 사람은 당연히 예수님 곁에 놓이는 것이 옳다.
그리고 예수는 모든 백성을 발아래 내려놓겠다고 한 것은 아니다.
모든 백성을 제자로 삼아라.
예수는 자신의 권능을 과시해서 자신의 노예를 만들고 싶은 것이 아니다.
신자를 만들고 싶다고 한 것도 아니었다.
제자를 만들고 싶다.
이어 "그들에게 부자와 성령의 이름으로 세례를 내리고, 그대들에게 명령한 것을 모두 지키도록 가르치라"고 한다.
사실 이 세례를 주겠다는 말도, 가르치겠다는 말도, 제자들에게 당신들은 가라고 할 때 가겠다는 말도 모두 제자로 삼으라는 말과 연결돼 있다.
제자들이 나가는 것도, 세례 주는 것도 가르치는 것도 그 사람을 제자로 삼기 위해서.
제자는 어떤 사람인가.
세례를 받고 예수의 말씀을 지키는 사람.
너희에게 명령한 것을 모두 지키라고 하지만 예수는 보통 제자들에게 명령하지 않았다.
예수가 명령했다고 확실히 말할 수 있는 것은 서로 사랑하라는 것뿐이다.
다른 예수의 말씀은 기본적으로 명령이 아니다.
다만 예수는 늘 이 세상의 성경 선생님들과는 다른 말씀을 하셨다.
이 세상의 성경 선생님들은 성경의 말씀을 이해하고 설명한다.
이에 대해 예수는 신의 아들로 신의 뜻을 전했다.
예수의 말에는 권위가 있다.
그것은 억지로 사람을 시켜서 하는 것이 아니라 예수의 말씀에는 진실이 있다.
그러니까 그 말을 지키는 게 옳다는 거지.
그 말을 지키는 것이 자신을 지키는 것이 된다.
하지만 이 제자들이 남에게 그런 걸 가르칠 수 있을까.
이 제자들은 예수의 말씀을 지키지 못하고 도망친 제자들.
이 제자들이, 남에게 가르쳐도 되는 것인가.
좋다
마지막 말
나는 세상 끝까지 너희와 늘 함께 하리라.
예수가 함께 해주신다.
최고의 권능을 가지신 분이 함께 해주신다.
그렇다면 이제 그 사람이 어떤 사람인지는 문제가 아니다.
예수는 잠시 후 하늘로 올라가신다.
그러나 교대로 제자들에게 성령이 내려온다.
우리도 세례를 받을 때 성령을 받았다.
세례를 받다니 그런 것.
이제 예수님은 성령이라는 형태로 우리와 함께 해주신다.
그리고 '아버지와 성자와 성령의 이름으로'라고 말하지만, 아버지와 아들과 성령은 한 분의 신.
그래서 '아버지와 성자와 성령의 이름으로'에서 '이름'이라는 말은 원문으로는 그것이 하나임을 나타내는 말이다.
그리고 세상의 끝에는 예수님이 하늘에서 우리를 찾아주신다.
지금우리안에성령이계시고세상끝에는예수가다시와주신다.
즉 예수의 제자는 예수와 떨어질 수 없다.
어떤 때든 모든 권능을 가지신 분이 저희와 함께 해주신다.
어떤 때도, 떨어지지 않아.
그게 우리
그리고 이 말 순서를 조심해야 한다.
나는 늘 함께한다고 말하고 나서, 그러니까 전도로 가라고 한 것은 아니다.
가라고 해서, 마지막으로, 나는 언제나 함께 있다.
예수님이 함께 해 주시는 걸 저희가 진짜 느낄 수 있는 건 저희가 나간 곳에서요.
우리가그사람그사람에게보내져서그사람을제자로만들기위해서일하는가운데우리는예수가함께해주시는것을알게된다.
예수의 권능이 거기에 나타난다.
하늘과 땅의 모든 권능이 거기에 나타난다.
그래서 교회는 전 세계로 뻗어나갔다.
자기 선생님을 버리고 도망간 제자들이 시작한 일이 전 세계에 퍼졌다.
그것이 예수의 권능이 하늘과 땅의 일체의 권능이라는 증거.
그 힘이 이곳에 교회를 세웠다.
우리는 예수의 권능이 드러난 이 교회에서 지금 예배하고 있다.
그리고 제자들은 예수를 예배하고 전도로 나간다.
우리도 마찬가지.
이 예배에서 전도로 나갈거야.
거기에 예수의 권능이 나타난다.
나를 제일로 만들어 버리는 우리
의심할 수 있는 우리
그래도 안심해도 돼.
예수께서 계시다.