今週の説教「初めに」(新約聖書・ヨハネによる福音書1章1節から5節)

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

 太初有道,道与神同在,道就是神。这道太初与神同在。万物都是藉着他造的;凡被造的,没有一样不是藉着他造的。生命在他里头,这生命就是人的光。光照在黑暗里,黑暗却不接受光。

 

 

 

今日から、ヨハネによる福音書を読んでいきたい。

 从今天开始要读约翰福音。

この福音書は、イエスの弟子のヨハネが書いた。

 约翰福音是耶稣的门徒约翰写的。

ヨハネは、イエスの弟子の中で一番若かった。

 约翰是耶稣门徒中最年轻的。

イエスは30過ぎ、30半ば。

 耶稣三十多岁,三十过半。

ペトロもイエスと同じくらい。

 彼得也和耶稣差不多。

30代半ばというのは、この時代ではかなり高い年齢。

 三十过半在当时已经是高龄了。

この時代の平均寿命は30代後半だったとも言われている。

 据说当时的平均寿命是三十八九岁。

しかし、ヨハネは10代だった。

 可是,约翰是十几岁。

この時代は男の子は13歳で成人式なので、一応大人にはなっている年齢だけれども、イエスや他の弟子たちとの年の差を考えたら、おじさんの中に若者が一人いるような感じ。

 当时男孩13岁成人,虽然已经成人了,但是想到与耶稣以及其他门徒的年龄差,感觉上就好像是一位年轻人在一群大叔中间。

そのヨハネが、おじいさんになってから、この福音書を書いた。

 这位约翰在成为大叔后,写了这本福音书。

ヨハネはその他にも手紙を書いている。

 约翰还写了其它的书信。

イエスが直接選んだ弟子は十二人いたが、他の弟子たちは殉教したが、ヨハネは殉教しなかった。

 耶稣亲自选的门徒,其他都殉道了,但是约翰没有。

ヨハネは、殉教という形でキリストを証しするのではなく、文章を書いてキリストを証しするように用いられた。

 约翰不是以殉道的形式见证基督,而是写文章来见证耶稣,是这样被使用的。

そのヨハネが、イエスのことを書こうと思ったは、単に出来事を記録するだけでなく、霊的な福音書を書きたいと思ったからだと伝えられている。

 这位约翰之所以想要写耶稣的事迹,据说是因为他不只是想要记录事件,而是想要写属灵的福音书。

80代になっていたはずのヨハネだが、霊的にイエス・キリストを伝えたいという強い思いがあった。

 已是80岁的的约翰,有强烈的想法想要从灵性上来传讲耶稣基督。

それだけではない。

 不仅如此。

ヨハネは、この福音書を、ただ、一つの福音書として書いたのではない。

 约翰并不是把这本福音书只作为福音书来写。

1章の1節はこういう言葉で始まっている。

 第一章一节以这样的话语开始。

「初めに言があった」。

 “太初有道。”

これは、聖書の最初の本である創世記を意識してこう書いている。

 这是意识到了圣经最开始的创世纪才这样写的。

創世記の最初はこう。

 创世纪一开始是这样的:

「初めに、神は天地を創造された」。

 “起初,神创造天地。”

それを意識して、「初めに、言があった」。

 意识到了这点才会说“太初有道”。

ヨハネは、天地の創造と同じくらい大事なことを書こうとしている。

 约翰想要写和天地创造同等重要的事。

 

 

初めにあったものは言葉だと書かれている。

 写到说最先有的是语言。

言葉が初めにあったとはどういうことか。

 语言最先有是指什么呢?

創世記の最初のページを見ると、神の最初の言葉は「光あれ」。

 看创世纪第一页的话,就知道神最先说的话是“要有光”。

そして、その言葉の通りに光が現れる。

 于是,按这话说的,就有了光。

それに続いて神は次々に言葉で天地を創造していく。

 接着,神用语言依次创造了天地。

しかし、「初めに言があった」と言われると不思議。

 可是,说“太初有道”,太不可思议了。

普通に考えると、言葉というのは、誰かが話したから、言葉がある、と言える。

 一般来想的话,说到语言,可以说自从有人说话,就有了语言。

当然、話をする誰かは、言葉よりも先にいる。

 当然,说话的人,要比语言先有。

まず神がいて、神が「光あれ」と言ったから、光が現れた、という順番になるはず。

 首先有神,神说了“要有光”,于是就有了光,应该是这样的顺序。

しかしここでは、言葉というものが、神と共に最初からあったもので、神が「光あれ」という言葉を話したから、光が現れたのではなくて、最初からあった言葉が、その言葉の力で、天地を創造していった、という感じ。

 可是,这里的语言,感觉是和神一起,从最初就有的,不是神说了“要有光”这话之后,光才出现的,是最初就有的,这话语的大能创造了天地。

神が「光あれ」と言う前から、言葉はあった。

 在神说“要有光”之前,语言就有了。

そして、その言葉に、物事を実現する力があった。

 而且,在这话语中,有让事物成真的大能。

言葉は最初から、神として存在していた。

 话语从一开始,作为神存在。

これは、私たちが普通に言葉とは何か、と考える時の考え方とは全く違う。

 这和我们平常思考语言是什么时的思维完全不同。

 

 

神の言葉と人間の言葉は違う。

 神的话语和人的话不同。

それは、創世記の最初のページを読んだだけでも分かる。

 这点只要读了创世纪第一页就能明白。

「光あれ」という言葉がある。

 “要有光”,有这句话。

そもそも、どうして神はその時、「光あれ」と言ったのか。

 起先,神为什么在那个时候说“要有光”呢?

「光あれ」と言っても、それを聞いている人は誰もいない。

 就算说了“要有光”,听的人一个都没有。

何も言わずに光を造っても良かったはず。

 就算什么都不说就造了光肯定也可以。

言葉がそれだけ大事なものだったということ。

 说明了话语是如此重要。

人間の言葉だったらどうか。

 人的话又怎样呢?

人間が、何かを作りなさい、と誰かに言う。

 人会对他人说要做什么。

そして、言われた人がそれを作る。

 于是,被说的人就去做。

それだったら、「その人がそれを作らせた」と書くだけでいい。

 这样的话,只要写“那人让人做了这事”就好了。

「その人が何かを作りなさいと言った」ということは書かなくていい。

 不用写“那人说要做什么”也可以。

しかし、神の言葉は違う。

 可是,神的话不一样。

その言葉が存在する、それが決定的。

 这话语是存在的,这点已经定了。

人間の言葉はそうではない。

 人的话不是这样的。

誰かが何か言っても、その通りにならないことはいくらでもある。

 就算谁说了什么,不按此话行的多了去了。

しかし、神の言葉は存在するだけで、もう決まり。

 可是,只要神的话语存在,就已经定了。

これ以上に重い存在はないというくらいのもの。

 没有比这更重要的存在了。

だから、神は、言葉で天地を創造した。

 因此,神用话语创造天地。

考えてみると、造るということなら、神はどんな方法でも造ることができる。

 试想一下,创造事物的话,神可以用任何方法。

ただ、言葉で造った。

 不过,他是用话语造的。

他のどんな方法よりも、神の言葉には力がある。

 比起其它的方法,神的话语中大有能力。

 

 

そして、言葉とはコミュニケーションのためのもの。

 而且,语言是为了交流用的。

その言葉が、神にとっても決定的なもの。

 语言对神来说也是必定的。

その言葉を用いて、神はすべてをお造りになられた。

 用这话语,神创造了一切。

これは、神が、造られたものとコミュニケーションしたい、話をしたい、つながりたい、交わりをしたいという思いをもって、すべてを造ってくださったということ。

 这是因为神想着要和被造之物交流、说话、联系、交通,抱着这样的想法创造了这一切。

つまり、神は造られたすべてのものを愛しておられるということ。

 也就是说,神爱他所创造的这一切。

神は、ご自分の愛を向ける相手として、すべてのものを造られた。

 神把这一切作为他自己所爱的对象来创造的。

だから、それを造って、それが存在する、ということが、神にとって何よりも大事なこと。

 因此,创造这一切,让这一切存在,对神来说,这一切比什么都重要。

考えてみると、神は別に何も造らなくてもいい。

 想想的话,神什么都不造也是可以的。

何も造らずに、ただイメージしているだけでも、全知全能の神にとっては同じこと。

 什么都不造,哪怕只是想象一下,对于无所不知,无所不能的神来说,也是一样的。

すべて分かっていること。

 一切都知晓。

考えた通りになる。

 心想,便能事成。

だけれども、造った。

 可他还是造了。

神にとって、存在というものは、それだけ大事なこと。

 对神而言,只有存在是重要的。

分かっていても、あるのとないのとでは、全然違う。

 就算知道,有和没有,是完全不一样的。

「成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。

 “凡被造的,没有一样不是藉着他造的。”

これは、神がすべてのものを愛しておられるということ。

 这是指神爱一切。

私たちにとって素晴らしいものでも、そうでないものでも、神にとってはすべて、大事なもの。

 对我们来说厉害的也好,不厉害的也好,对神来说,一切都是重要的。

だから、4節で、「言の内に命があった」と言われている。

 所以,第4节说“生命在他里头”。

神の言葉は生きている。

 神的话是活的,有生命的。

言葉は存在するだけでなく、そこに命がある。

 言语不只是一种存在,里头是有生命的。

その命が、命あるものもないものも、すべてのものを造った。

 这生命创造了万物,有生命的以及没生命的。

命のない言葉が、造ったのではない。

 不是用没有生命的话语创造的。

命のある言葉が、すべてを造った。

 用生命的话语,创造了一切。

命のない言葉でも、何かを造ることはできるだろう。

 即使是没有生命的语言,也可以创造什么的吧。

人間がパソコンの中でプログラミングをする、というのはそういうことだろう。

 人在计算机上写程序,就是这么回事。

しかし、神の言葉には命がある。

 可是,神的话是有生命的。

その命が、命あるものも、ないものも、すべてのものを造った。

 这生命创造了万物,无论是有生命的,还是没有生命的。

生きているものが、すべてを造った。

 有生命的创造了一切。

すべてのものは、命あるものに支えられている。

 万物皆由这有生命的话语支撑。

すべてのものは神の目に尊い。

 万物在神眼中都是宝贵的。

 

 

ただ、言葉というものを力ある愛と命にあふれたものとして考えるのは、多くの人にとって難しいかもしれない。

 不过,把语言作为大有能力的爱和满了生命的东西来思考的话,对大多数人而言可能很难。

私たちは、力のない言葉、愛のない言葉、中身のない言葉をずっと聞かされてきた。

 我们听到的一直都是没用的、无爱的、没有内容的话。

まして、この、言葉と訳されている単語は、ギリシャ語の「ロゴス」という言葉。

 而且, 这里翻译成语言的词,在希腊语中是“logos”。

この「ロゴス」という言葉は説明するのも難しい言葉。

 这是一个解释起来很难的词。

この「ロゴス」が英語になると、「テクノロジー」の「ロジー」になる。

 这个“logos”变成英语的话,就是“technology”的“logy”.

単に言葉、というものではない。

 不单是语言。

ドイツの小説家ゲーテが書いた小説に『ファウスト』がある。

 德国小说家歌德写的小说有一本叫做“浮士德”。

ファウストというのは博士。

 浮士德是个博士。

その博士は、色々なことを勉強してきたけれども、真理が分からない。

 他学了很多东西却不明白真理。

そこで、聖書を翻訳してみようとする。

 于是想要翻译圣经。

「初めに言があった」。

 “太初有道。”

もうこれでつまづいてしまう。

 这就已经难住他了。

言葉にそんな高い価値があるはずがない。

 语言不可能有那么高的价值。

そこで、この言葉を色々に訳してみる。

 于是,试着把这话翻成了很多其它的。

「初めに心があった」。

 “太初有心”。

いや、心がすべてのものを造ったというのはおかしい。

 不行,心创造万物很奇怪。

「初めに力があった」。

 “太初有力”。

しかし、これでも安心できない気がする。

 可是,感觉这样翻也不行。

「初めに行いがあった」。

 “太初有为”。

これで安心だ。

 这样可以。

しかし、このすぐ後に、ファウスト博士のところに、悪魔がやって来る。

 可是,这之后魔鬼马上来到了浮士德那里。

言葉ではなく行いだ、と言ったところに、悪魔が来る。

 刚说完不是语言,是行为,魔鬼就来了。

 

 

すべてのもののベースは神の言葉にある。

 万物之本在神的话语中。

それを信じることができないと、結局、行いになる。

 无法相信这一点,最终就成了行动。

自分の力で何とかしようという考え。

 想着以一己之力做点什么。

しかしそれでは、神を忘れて、神の力も神の愛もなくしてしまうことになる。

 可是,这样的话就把神给忘了,神的大能和神的爱全都没有了。

暗闇の中を生きることになる。

 活在了黑暗中。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と言われている。

 “生命在他里头,这生命就是人的光。”

神は、人間を照らす光である、神の言葉を語る。

 神是照亮人生命的光,他述说神的话语。

そして、光で照らすということは、人間は暗闇の中にいるということ。

 而且,用光照亮是指人活在黑暗中。

光の言葉で造られた人間。

 用光的话语造的人。

しかし、人間は暗闇の中にいる。

 可是,人却活在黑暗中。

私たちは、神の光を見失っている。

 我们把神的光丢了。

暗闇の中に生きている。

 我们活在黑暗中。

自分で作りだした暗闇。

是自己制造的黑暗。

神の言葉よりも、自分の考えが大事。

 比起神的话语,更重视自己的想法。

それで、神の光を見失ってしまう。

 于是就把神的光弄丢了。

それでも、「光は暗闇の中にも輝いている」。

 尽管如此,“光照在黑暗里”。

しかし、「暗闇は光を理解しなかった」。

 可是,“黑暗却不接受光”。

暗闇は光を知らない。

 黑暗不知道光。

それはそう言える。

 可以这样说。

光あるところに暗闇はない。

 有光的地方就没有黑暗。

だから、暗闇は光を知らない。

 所以,黑暗不知道光。

そして、この「理解しなかった」という言葉は、「勝利しなかった」とも訳すことができる言葉。

 而且,“不理解”这词也可以翻译成“没有胜过”。

暗闇は光に勝たなかった。

 黑暗没有胜过光。

暗闇は光に負けた。

 黑暗败给了光。

光には力がある。

 光中有大能。

暗闇というのは、光がないということで、暗闇に何かの力があるわけではない。

 黑暗就是没有光,并不是说黑暗中有什么能力。

そして、「光は暗闇の中で輝いて『いる』」と言われている。

 而且还说“光在黑暗中依然闪耀”。

私たちを照らす光が、今も私たちを照らしている。

 照耀我们的光,现在还照着我们。

たとえ私たちの心の中に暗闇があっても。

 即使黑暗充斥着我们的内心。

たとえ私たちの周りがどんなに暗くても。

 无论我们的周围如何黑暗。

「初めに、神は天地を創造された」。

 “起初,神创造了天地”。

しかし、世界は罪に陥ってしまった。

 可是,世界陷入了罪中。

けれども、神の光は失われていない。

 但是,神的光没有消失。

暗闇を照らす光として、今も輝いている。

 作为照亮黑暗的光,如今依然熠熠生辉。

私たちは、その光をどれくらい理解しているだろうか。

 我们理解这光多少呢?

感じることができているだろうか。

 能感觉到这光吗?

神の言葉を聞いている私たちは今、光の中にいる。

 聆听神话语的我们,现在正是在光中。

力ある言葉、人間への愛にあふれる言葉、私たちを生かす命の言葉が、私たちの中に、私たちの周りにある。

 大能的话语,对人满了爱的话语,拯救我们的话语,就在我们的里面,在我们的周围。

神が天地を造られたことと同じくらい、力と愛と命にあふれた出来事が、今、私たちに起こっている。

 与神创造天地同等的,满了大能、爱和生命的奇迹,如今正发生在我们身上。

神の言葉を聞くというのはそういうこと。

 聆听神的话语说的就是这个。

暗闇は光に勝たない。

 黑暗胜不过光。

神の言葉を受け入れよう。

 接受神的话语吧。

その時、神の力と神の愛が私たちに現れる。

那时,神的大能以及神的爱就会显现在我们身上。

 

금주의 설교 '처음으로'
요한복음 1장 1절에서 5절

오늘부터 요한복음서를 읽어볼 작정이다.
이 복음서는 예수의 제자 요한이 썼다.
요한은 예수의 제자 중 가장 젊었다.
예수는 서른 넘었고 서른 중반
베드로도 예수만큼
30대 중반은 우리 시대에서는 꽤 높은 연령.
이 시대의 평균 수명은 30대 후반이었다고도 한다.
그러나 요한은 10대였다.
이 시대는 남자아이는 13살에 성인식이기 때문에, 일단 어른은 되어 있는 나이지만, 예수나 다른 제자들과의 나이 차이를 생각하면, 아저씨 중에 젊은이가 한 명 있는 것 같다.
그런 요한이 할아버지가 된 뒤 이 복음서를 썼다.
요한은 그 밖에도 다른 편지를 쓰고 있다.
예수가 직접 뽑은 제자들은 열두 명 있었지만 다른 제자들은 순교했지만 요한은 순교하지 않았다.
요한은 순교라는 형태로 예수를 증시하는 것이 아니라 글을 써서 예수를 증시하는 식으로 쓰였다.
그랬던 요한이 예수를 쓰려 한 것은 단순히 사건을 기록하는 데 그치지 않고 영적인 복음서를 쓰고 싶었기 때문이라고 전해진다.
80대에 접어든 요한이지만 영적으로 예수 그리스도를 전하고 싶은 마음이 간절했다.
그뿐이 아니다.
요한은 이 복음서를 단지 하나의 복음서로 쓴 것이 아니다.
1장 1절은 이런 말로 시작됐다.
「처음에 할 말이 있었다」.
이는 성경의 첫 번째 책인 창세기를 의식해 이렇게 쓰고 있다.
창세기 첫 번째는 이렇다.
처음에 하느님은 천지를 창조하셨다.
그것을 의식해, 「처음에, 말이 있었다」.
요한은 천지의 창조만큼 중요한 것을 쓰려 한다.

처음에 있었던 것은 말이라고 씌어 있다.
말이 처음이었다니 무슨 말인가.
창세기 첫 장을 보면 하느님의 첫마디는 빛나라.
그리고 말 그대로 빛이 나타난다.
이어 하느님은 차례로 말씀으로 천지를 창조해 나간다.
그러나 처음에 할 말이 있었다고 하니 신기하다.
보통으로 생각하면, 말이라고 하는 것은, 누군가가 이야기했기 때문에, 말이 있다, 라고 말할 수 있다.
당연히 말을 하는 누군가는 말보다 먼저 있다.
먼저 신이 있고, 신이 '빛 있으라'고 했으니까 빛이 나타났다는 차례가 될 것이다.
그러나 여기에서는 말이라는 것이 신과 함께 처음부터 있었던 것으로, 신이 '빛 있으라'는 말을 했기 때문에 빛이 나타난 것이 아니라, 처음부터 있던 말이 그 말의 힘으로 천지를 창조해 나갔다는 느낌.
신이 '빛 있으라'고 말하기 전부터 말은 있었다.
그리고 그 말이 사물을 실현하는 힘이 있었다.
말은 처음부터 신으로 존재했다.
이것은, 우리가 보통 말이란 무엇인가, 라고 생각할 때의 사고방식과는 전혀 다르다.

하느님 말과 인간의 말은 다르다.
그것은 창세기 첫 장만 읽어도 알 수 있다.
빛이 있으라는 말이 있다.
애당초 왜 신은 그때 빛이 있으라 했을까.
「빛 있으라」라고 말해도, 그것을 듣고 있는 사람은 아무도 없다.
그냥 아무 말 없이 빛을 만들어도 됐을 거야.
말이 그만큼 소중했다는 거.
인간의 말이라면 어떨까.
인간이 무언가를 만들라고 누군가에게 말한다.
그리고 시키는 사람이 만든다.
그렇다면 그 사람이 그것을 만들게 했다고만 쓰면 된다.
그 사람이 무엇을 만들라고 했다는 것은 쓰지 않아도 된다.
하지만 신의 말은 다르다.
그 말이 존재한다 그게 결정적
인간의 말은 그렇지 않다.
누군가 뭐라고 해도 그대로 되지 않는 것은 얼마든지 있다.
그러나 하느님의 말씀은 존재할 뿐 이미 결정되었다.
이보다 더 무거운 존재는 없을 정도.
그래서 하느님은 말씀으로 천지를 창조하셨다.
생각해보면만든다고하면신은어떤방법이라도만들수가있다.
그냥 말로 만들었다.
다른 어떤 방법보다도 하느님의 말씀에는 힘이 좋다.

그리고 말이란 의사소통을 위한 것.
그 말이 신에게도 결정적인 것.
그 말을 이용해 신은 모든 것을 만드셨다.
이것은 신이 만든 것과 소통하고 싶고, 이야기를 하고 싶고, 연결하고 싶고, 교제를 하고 싶은 마음을 가지고 모든 것을 만들어 주셨다는 것.
신은 만들어진 모든 것을 사랑하신다는 것.
신은 사랑을 향한 상대로 모든 것을 만드셨다.
그래서 그것을 만들고 그것이 존재한다는 것이 신에게 무엇보다도 중요한 것.
따지고 보면 신은 별로 아무것도 만들지 않아도 된다.
아무것도 만들지 않고, 단지 이미지하고 있는 것만으로도, 전지전능한 신에게는 같다.
다 알고 있는 거
생각대로 되다.
하지만 만들었다.
신에게 존재란 그만큼 소중한 것이다.
알아도 있는 것과 없는 것은 전혀 다르다.
이루어진 것치고 말로만 이루어진 것은 하나도 없었다.
이것은 신이 모든 것을 사랑하신다는 것.
우리에게 있어 훌륭한 것이나 그렇지 않은 것이나 신에게는 모두 소중한 것이다.
그래서 4절에서 말 속에 생명이 있었다고 한다.
하느님의 말씀은 살아 있다.
말은 존재할 뿐 아니라, 거기에 생명이 있다.
그 목숨이 생명있는 것도 없는 것도 모든 것을 만들었다.
생명 없는 말이 만들어낸 것은 아니다.
생명 있는 말이 모든 것을 만들었다.
목숨이 없는 말로도 무언가를 만들 수는 있을 것이다.
인간이 PC 안에서 프로그래밍을 한다, 라고 하는 것은 그러한 것일 것이다.
그러나 신의 말에는 생명이 있다.
그 목숨이 생명있는 것도 없는 것도 모든 것을 만들었다.
살아있는 것이 모든 것을 만들었다.
모든 것은 생명 있는 자에게 의지한다.
모든 것은 신의 눈에 귀하다.

다만 말이란 것을 힘 있는 사랑과 생명이 넘치는 것으로 여기는 것은 많은 사람에게 어려울 수 있다.
우리는 힘없는 말, 사랑 없는 말, 알맹이 없는 말을 줄곧 들었다.
하물며 이, 말로 번역되고 있는 단어는, 그리스어의 「로고스」라고 하는 말.
로고스라는 말은 설명하기도 어려운 말.
로고스가 영어로 바뀌면 테크놀로지의 로지가 된다.
단순히 말, 이라고 하는 것이 아니다.
독일 소설가 괴테가 쓴 소설에 파우스트가 있다.
파우스트라는 건 박사.
그 박사는 여러 가지를 공부해 왔지만 진리를 모른다.
그래서 성경을 번역해보려 한다.
「처음에 할 말이 있었다」.
이제 이것으로 주저앉아 버린다.
말에 그런 비싼 가치가 있을리가 없어.
그래서 이 말을 여러 가지로 번역해 본다.
처음에 마음이 있었다.
아니, 마음이 모든 것을 만들었다는 건 이상해.
처음에 힘이 있었다.
그러나 이래도 안심할 수 없을 것 같다.
「처음에 행실이 있었다.
이제 안심이다.
그러나 이 바로 뒤에 파우스트 박사에게 악마가 찾아온다.
말이 아니라 행동이라고 말하는데 악마가 온다.

모든 것의 근본은 신의 말씀에 있다.
그것을 믿지 못하면 결국 행실이 된다.
내 힘으로 어떻게든 해보겠다는 생각
그러나 그러면 하느님을 잊어버리고 하느님의 힘도 하느님의 사랑도 잃어버리게 된다.
어둠 속에서 살게 된다.
말 속에 목숨이 있었다.생명은 인간을 비추는 빛이었다"고 한다.
신은 인간을 비추는 빛이다, 신의 말을 한다.
그리고 빛으로 비추는 것은 인간은 어둠 속에 있다는 것이다.
빛의 언어로 만들어진 인간
그러나 인간은 어둠 속에 있다.
우리는 신의 빛을 잃고 있다.
어둠 속에 살아 있다.
스스로 만들어 낸 어둠
하느님말보다내생각이더중요하다.
그래서 신의 빛을 잃어버린다.
그래도 빛은 어둠 속에서도 빛난다.
하지만 어둠은 빛을 이해하지 못했다.
어둠은 빛을 모른다.
그건 그렇게 말할 수 있다.
빛이 있는 곳에 어둠은 없다.
그래서 어둠은 빛을 모른다.
그리고 이 이해할 수 없었다는 말은 승리하지 않았다고도 해석할 수 있는 말.
어둠은 빛을 이기지 못했다.
어둠은 빛에 졌다.
빛에는 힘이 있다.
어둠이란 빛이 없다는 것이지 어둠에 어떤 힘이 있는 것이 아니다.
그리고 빛은 어둠 속에서 빛나고 있다고들 말한다.
우리를 비추는 빛이 지금도 우리를 비추고 있다.
비록 우리 마음속에 어둠이 있을지라도.
비록 우리 주위가 아무리 어둡더라도.
처음에 하느님은 천지를 창조하셨다.
그러나 세계는 죄에 빠졌다.
하지만 신의 빛은 사라지지 않았다.
어둠을 밝히는 빛으로 지금도 빛나고 있다.
우리는 그 빛을 얼마나 이해하고 있는가.
느낄 수 있을까.
신의 말을 듣는 우리는 지금 빛 속에 있다.
힘 있는 말, 인간에 대한 사랑이 넘치는 말, 우리를 살리는 생명의 말이 우리 안에, 우리 주위에 있다.
하느님이 천지를 창조하신 것만큼이나 힘과 사랑과 생명이 넘치는 일이 지금 우리에게 일어나고 있다.
하느님의 말을 듣는다는 건 그런 것.
어둠은 빛을 이기지 못한다.
신의 말을 받아들이자.
그때 신의 힘과 신의 사랑이 우리에게 나타난다.