今週の説教「証し」(新約聖書・ヨハネによる福音書1章6節から13節)

 

今週の説教「証し」

 

新約聖書・ヨハネによる福音書16節から13

  约翰福音1章6-13节

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 有一个人,是从神那里差来的,名叫约翰。这人来,为要作见证,就是为光作见证,叫众人因他可以信。他不是那光,乃是要为光作见证。那光是真光,照亮一切生在世上的人。他在世界,世界也是藉着他造的,世界却不认识他。他到自己的地方来,自己的人倒不接待他。凡接待他的,就是信他名的人,他就赐他们权柄,作神的儿女。这等人不是从血气生的,不是从情欲生的,也不是从人意生的,乃是从神生的。

  

今日のところでは、洗礼者ヨハネのことが紹介されている。

 今天的内容,介绍的是施洗约翰。

ここのヨハネは、この福音書を書いたヨハネではなくて、洗礼者ヨハネと言われる人。

 这里的约翰,不是写这本福音书的约翰,而是被称作施洗约翰的人。

他の福音書を見ると、この人は、イエスが世に出てくる前に、人々が悔い改めて洗礼を受けることを勧めていた。

 看其它福音书的话,就知道此人出生在耶稣之前,劝人悔改受洗。

この時代の洗礼は川で行われた。

 当时的洗礼是在河里进行的。

川に全身浸かって、上がってくる。

 全身都浸到河里,然后从水中出来。

一度死んで、新しく生まれ変わる。

 死去一次,然后重生。

罪を悔い改めて、それまでの自分に死んで、新しく生まれて、そこから、神の道を歩き出す。

 悔改认罪,老我已死,得着新生,从此行走在神的道中。

そういう洗礼。

 是这样的洗礼。

ヨハネは、イエスが来る前にそういう働きをして、人々がイエスを受け入れることができるように、人々に準備させていた。

 约翰在耶稣来之前这样做工,让众人做好准备,接受耶稣。

 

 

ただ、今日のところでは、そのヨハネのことが、「彼は証しをするために来た」と言われている。

 不过,在今天的内容中,说约翰“这人来,为要作见证”。

ヨハネは、光について証しする。

 约翰为光作见证。

光とは何か。

 光是什么?

この前のところでは、神の言葉とはどういうものなのかが言われていたが、言葉の内に命があって、命は人間を照らす光であったと言われている。

 之前的内容讲了神的道是什么,说到生命在他里头,这生命就是人的光。

神の言葉は単なる声ではない、単なる音ではない。

 神的道不只是声音。

神の言葉は一つの命ある存在。

 神的道是一种生命的存在。

そして、その命が光として、人間を明るく照らしている。

 并且,这生命以光的形式闪闪地照亮着人。

そして、今日の9節を見ると、この光は、この世にやってきた。

 接着看今天的第9节,这光来到了世上。

これが、イエス・キリストのことだということ。

 这是指耶稣基督。

イエス・キリストは、神の言葉、世の光である。

 耶稣基督就是神的道,世上的光。

それを証しするのがヨハネだということ。

 为此作见证的就是约翰。

 

 

光というものは目に見えるもの。

 光是眼睛可以看到的东西。

目に見えるから誰にでも分かる。

 因为眼睛可以看到,所以谁都能明白。

しかし、イエス・キリストが神の言葉で、世の光であるというのは、証されなければ分からない。

 可是,耶稣基督是神的道,世上的光,如果不证明就不会明白。

まして、世の光ということは、逆に言って、この世は暗闇だということ。

 说耶稣是世上的光,反而言之,也就是说,这世界是黑暗的。

暗闇は光を知らない。

 黑暗不知道光。

暗闇に光を差し込むと、そこだけは暗闇が無くなる。

 光一照进黑暗的话,只有照到的地方不再黑暗了。

暗闇と光は両方そこにある、ということはない。

 黑暗和光明同时存在,这种事是没有的。

暗闇は光を知らない。

 黑暗不知道光。

だから、光を証しする。

 所以,要为光作见证。

 

 

ただ、この福音書の5章34節を見ると、イエスは、私は人からの証しはいらない、と言っている。

 看这本福音书5章34节,耶稣说我所受的见证不是从人来的。

それなのにヨハネが証しするのは、ヨハネの証しはイエスのためではない。

 而约翰所作的见证,不是为了耶稣。

7節に書かれているが、「すべての人が彼によって信じるようになるため」。

 第7节所写的,“为叫众人因他可以信”。

つまり、私たちのために、ヨハネは証ししてくれる。

 也就是说,约翰是为我们作见证。

 

 

そして、ヨハネは、自分の考えでそういう働きを始めたのではない。

 而且,约翰不是根据自己的想法开始这样做工的。

6節で、「神から遣わされた」と言われているが、神は、光について証しすることをとても大事に考えておられたらしい。

 第6节说“从神那里差来的”,神似乎把为光作见证这事看得尤为重要。

ヨハネは、イエスより先に生まれた。

 约翰比耶稣先出生。

証しというのは普通、後からするものだが、その働きをする人を、先にこの世に生まれさせた。

 见证一般是之后作的,但是,让作这见证的人先来到了世上。

人が信じるようになるかどうかは証しにかかっている。

 人是否会相信光和见证有关。

暗闇は光を理解しない。

 黑暗不了解光。

だから、証しは何よりも大事なこと。

 因此,作见证比任何事都重要。

 

 

ただ、神の言葉であるイエス・キリストがこの世に現れても、この世は神の言葉を認めなかった。

 不过,就算神的道耶稣基督来到了这世上,世界也没有接受神的道。

ご自分の民のところに来ても、民は神の言葉を認めなかった。

 就算来到自己的百姓中间,百姓也不认可神的道。

神の言葉がこの世を造った。

 神的道造了这世界。

神の言葉が民を造った。

造了百姓。

それなのに、受け入れない。

 然而,却没有被接受。

ヨハネが証しして、イエスが来ても、暗闇は受け入れなかった。

 即使约翰作了见证,耶稣来了,黑暗也没有接受。

 

 

ただ、すべての人が受け入れなかったわけではない。

 不过,并不是所有的人都没有接受。

この世が暗闇でも、イエスを受け入れる人はいた。

 这世界再黑暗,还是有接受耶稣的人。

イエスの弟子になる人たちもいた。

 有成为耶稣门徒的人。

その人たちのことが、最後の13節で、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と言われている。

 这些人,在最后的13节,说“这等人不是从血气生的,不是从情欲生的,也不是从人意生的,乃是从神生的。”

この人たちは、人間の側の何かによって生まれたのではない。

 这些人不是从人生的。

普通に考えると、人は、人間の側の何かによって生まれる。

 一般都会认为,人是从人生的。

そして、この世に位置づけられる。

 并且,在这世上有一席之地。

しかし、イエスを受け入れる人は、そのような、この世の人とは全く違う。

 可是,接受耶稣的人,和世上这样的人完全不同。

神によって生まれた。

 是从神生的。

すべてのものは神によって生まれたと言えるけれども、12節では、「神の子となる資格を与えた」と言われている。

 可以说万物都是从神生的,但是12节说,“他就赐他们权柄,作神的儿女。”

この世の人は神の子ではない。

 世人不是神的儿女。

イエスの民も、神の子ではない。

 耶稣的子民也不是神的儿女。

暗闇の子。

 是黑暗之子。

信じる者が神の子にされる。

 信的人就成了神的儿女。

この「信じる」という言葉は、「信じて中に入る」という言葉。

 “信”这词,是“相信并进入”的意思。

ドアを開けて、信じて、中に入る。

 门开了,信并进到里面。

ドアの向こうに何があるのか分からなかったら、ドアを開けて入るのは恐ろしいこと。

 门里面是什么不知道的话,开门进去会害怕。

それでも、信じて、中に入る。

 尽管如此,还是信了,进到里面。

それは実は、暗闇から出て、光の中に入ること。

 这其实是出黑暗进光明的意思。

自分自身も暗闇だったけれども、そこから出て、光の中に入る。

 虽然自己也是黑暗,但是从里面出来,进到了光明中。

暗闇は消える。

 黑暗消失了。

それまでの自分はいなくなる。

 以前的自己没有了。

血によって、肉の欲によって、人の欲によって生まれた自分はいない。

 从血气,从情欲,从人意而生的自己不见了。

神の子になる。

 成了神的儿女。

 

 

だからイエスは、イエスの言葉を聞くために集まってきた人に、「あなたがたは世の光である」と言った。

 因此耶稣对聚集起来听他话语的人说“你们是世上的光”。

マタイによる福音書の5章14節。

 马太福音5章14节。

私たち自身、今はもう光。

 我们现在已经是光了。

私たちという光が、今もう、この世を照らしている。

 我们现在已经在照亮这个世界了。

神の目にわたしたちは、この世の人たちとは全く違う。

 在神眼中,我们和这世上的人完全不同。

私たちは信じる前と後で、どれくらいの違いがあったかと考える。

 想想我们在信前和信后,有多么大的不同呢?

大きな違いもあった。

 有很大的不同。

しかし、小さい頃から変わっていない面もある。

 可是,也有从小到大一直没变的地方。

でも、実際のところ、私たちの在り方は全く変わった。

 但是,事实上,我们完全改变了。

私たちは以前は暗闇だった。

 以前我们是黑暗。

光を知らなかった。

 不知道光。

しかし、ある時誰かに証しされて、信じて、光の中に入った。

 可是,在某个时候某人作见证,我们信了,进入了光明。

私たちに証しした人は、私たちに伝道してくれたかもしれない。

 向我们作见证的人,可能向我们传道了。

もしかすると、その人の方では証しているつもりではなくて、その人自身、ただ普通にしているつもりで、証しになっていたのかもしれない。

 或许那人没有打算作见证,只是正常行事,就作了见证。

そういうことだってあるだろう。

 这种事有的吧。

その人はもう、光の中にいる人だから、そして、世の光なんだから、普通にしているだけで、私たちは光に照らされていることになる。

 因为那人已经行在光明中,而且,因为是世上的光,只要正常行事,我们就被光照耀了。

今度は私たちがそれをする。

 今后我们要这样做。

いや、今もう、そうしている。

 不,现在已经在做了。

私たちは、神の子として、光の子として、新しく生かされている。

 我们作为神的儿女,作为光之子,获得新生了。

それでも、イエスを受け入れない、信じない、という人もいるけれども、神が私たちをそれぞれの場所に遣わしている。

 即使这样,还是有人不接受耶稣,不信,但是,神把我们派去各个不同的地方。

その中で、私たちは、証しされて、光の中に入ったものとして、証しし、暗闇を照らしていく。

 在那些地方,我们听见证,自己因见证而进入光明,又以此为见证,去照亮黑暗。

大変なことだと思うかもしれない。

 可能会觉得很难。

しかし、私たちを遣わしてくださるのは神。

 可是,差遣我们的是神。

私たちの光は、神の光。

 我们的光是神的光。

 

 

そして、そうなるように、洗礼者ヨハネは洗礼を授けていたし、私たちも洗礼を受けた。

 于是,就像这般,施洗约翰施洗,我们也受洗了。

洗礼を受けて、それまでの自分は死んで、新しく神の道を歩きはじめた。

 受洗后,老我死去,重生,走上了神的道。

今日の言葉で言うと、洗礼を受けたというのは、私たちが人間の側の何かによって生まれたということではなくて、私たちが神によって生まれたということ。

 今天的话语所说的受洗,就是指我们不是从人生的,而是从神生的。

私たちが光だと言うのは、分かりにくいかもしれない。

 说我们是光,或许难以理解。

しかし、私たちの多くが、洗礼を受けたというのは事実。

 可是,我们大多数都受洗了,这是事实。

そして、洗礼を受けたというのは、私たちが事実、神の子とされたということ。

 而且,受洗就是说,我们事实上已经是神的儿女了。

神の子は当然、光の子。

 神的儿女当然是光之子。

私たちは、光の子として、今も、暗闇を照らしている。

我们作为光之子,如今也在照亮着黑暗。



 

금주의 설교 '증거'

 

 

 

오늘로서는 세례자 요한이 소개되고 있다.

 

이곳의 요한은 복음서를 요한이 아니라 세례자 요한으로 불리는 사람.

 

다른 복음서를 보면 사람은 예수가 세상에 나오기 전에 사람들이 회개하고 세례를 받을 것을 권하고 있었다.

 

시대의 세례는 강에서 행해졌다.

 

강물에 온몸이 잠겨서 올라와.

 

죽고 새롭게 태어난다.

 

죄를 뉘우치고, 지금까지의 자신에게 죽고, 새롭게 태어나서, 거기에서 신의 길을 걷기 시작한다.

 

그런 세례

 

요한은 예수가 오기 전에 그런 일을 해서 사람들이 예수를 받아들일 있도록 준비시키고 있었다.

 

 

 

다만 오늘로서는 요한에 대해 그가 증명을 하기 위해 왔다는 말이 나오고 있다.

 

요한은 빛에 대해 증시한다.

 

빛이란 무엇인가.

 

앞쪽에서는 신의 말씀이란 무엇인가를 말했지만 속에 생명이 있고 생명은 인간을 비추는 빛이었다고 한다.

 

하느님의 말씀은 단순한 소리가 아니다, 단순한 소리가 아니다.

 

하느님의 말씀은 하나의 생명있는 존재.

 

그리고 생명이 빛으로서 인간을 밝게 비추고 있다.

 

그리고 오늘 9절을 보면 빛은 세상에 왔다.

 

이것이 예수 그리스도라는 .

 

예수 그리스도는 하나님의 말씀, 세상의 빛이다.

 

그것을 증명하는 것이 요한이라는 .

 

 

 

빛이란 눈에 보이는 .

 

눈에 보이니까 누구나 있어.

 

그러나 예수 그리스도가 하나님의 말씀이고 세상의 빛이라는 것은 증명되지 않으면 없다.

 

하물며 세상의 빛이라는 것은 거꾸로 말해서 세상은 암흑이라는 .

 

어둠은 빛을 모른다.

 

어둠에 빛을 비추면 그곳만은 어둠이 사라진다.

 

어둠과 빛이 모두 거기에 있는 것은 아니다.

 

어둠은 빛을 모른다.

 

그래서 빛을 증명한다.

 

 

 

다만 복음서의 5 34절을 보면 예수는 내가 다른 사람의 증시는 필요 없다고 했다.

 

그런데도 요한이 증시하는 것은 요한의 증시는 예수를 위한 것이 아니다.

 

7절에 씌어 있지만 모든 사람이 그로 인해 믿게 되기 때문.

 

요한은 우리를 위해 증시를 해주는 것이다.

 

 

 

그리고 요한은 굳이 자신의 생각으로 그런 일을 시작한 것이 아니다.

 

6절에서, 신이 주신이라고 말해지고 있지만, 신은, 빛에 대해 증명하는 것을 매우 소중히 생각하고 계셨던 같다.

 

요한은 예수보다 먼저 태어났다.

 

증시는 대개 나중에 하는 것이지만, 일을 하는 사람을 먼저 세상에 태어나게 했다.

 

사람이 믿게 될지 어떨지는 증시에 달려 있다.

 

어둠은 빛을 이해하지 못한다.

 

그래서 증시는 무엇보다 중요한 .

 

 

 

다만 하나님의 말씀인 예수 그리스도가 세상에 나타나도 이승은 하나님의 말씀을 인정하지 않았다.

 

내가 백성에게 와서도 백성들은 신의 말을 인정하지 않았다.

 

신의 말씀이 세상을 만들었다.

 

신의 말씀이 백성을 만들었다.

 

그런데도 받아들이지 않는다.

 

요한이 증시하고 예수가 와도 어둠은 받아들이지 않았다.

 

 

 

단지, 모든 사람이 받아들이지 않았던 것은 아니다.

 

세상이 캄캄해도 예수를 받아들이는 사람은 있었다.

 

예수의 제자가 되는 이들도 있었다.

 

사람들이 마지막 13절에서 사람들은 피로써가 아니라 고기의 욕심에 의해서가 아니라 사람의 욕심에 의해서도 아니라 신에 의해서 태어난 것이라고 말하고 있다.

 

사람들은, 인간 쪽의 무언가에 의해서 태어난 것이 아니다.

 

보통으로 생각하면, 사람은, 인간 쪽의 무언가에 의해서 태어난다.

 

그리고 세상에 자리 잡는다.

 

그러나 예수를 받아들이는 사람은 그런 세상 사람들과는 판이하게 다르다.

 

신에 의해 태어났다.

 

모든 것은 신이 내린 것이라 있지만, 12절에서는 '하느님의 아들이 자격을 주었다' 한다.

 

세상 사람은 신의 자식이 아니다.

 

예수의 백성도 신의 자식이 아니다.

 

어둠 속의 아이

 

믿는 자가 하느님의 아들이 된다.

 

믿다라는 말은 믿고 안으로 들어간다는 .

 

문을 열고, 믿고, 안으로 들어간다.

 

너머에 뭐가 있는지 모른다면 문을 열고 들어가는 것은 무서운 일이다.

 

그래도 믿고 안으로 들어간다.

 

그것은 사실 어둠을 타고 나와 속으로 들어가는 것이다.

 

자신도 어둠이었지만, 거기서 나와 속으로 들어간다.

 

어둠은 사라진다.

 

그때까지의 자신은 없어진다.

 

피로인해고기욕심으로,사람의욕심으로태어난나는없다.

 

신의 자식이 되다.

 

 

 

그래서 예수는 예수의 말씀을 듣기 위해 모인 사람들에게 당신들은 세상의 빛이다라고 말했다.

 

마태복음의 5 14.

 

우리 자신 이제는

 

우리라는 빛이 지금 이미 세상을 비추고 있다.

 

하느님 눈에 우리는 세상 사람들과는 전혀 다르다.

 

우리는 믿기 전과 후가 얼마나 차이가 났을까 하고 생각한다.

 

차이도 있었다.

 

하지만 어려서부터 달라지지 않은 면도 있다.

 

그렇지만, 실제로, 우리의 본연의 자세는 완전히 바뀌었다.

 

우리는 예전에는 어둠이었다.

 

빛을 몰랐어.

 

그러나 어느 순간 누군가에게 증거당하고, 믿고, 속으로 들어갔다.

 

우리에게 증시한 사람은 우리에게 전도해 주었을지도 모른다.

 

어쩌면 사람 쪽에서는 숨기고 있는 아니라, 사람 자신이 보통 사람처럼 여기고 있다는 증거였을지도 모른다.

 

그럴 수도 있지.

 

사람은 이제 속에 있는 사람이니까, 그리고 세상의 빛이니까, 그냥 있는 것만으로 우리는 빛에 비추고 있는 것이 된다.

 

이번엔 우리가 그걸 거야.

 

아니, 지금 벌써 그렇게 하고 있어.

 

우리는 신의 아들로, 빛의 아들로, 새롭게 태어나고 있다.

 

어떤 사람들은 예수를 받아들이지 않고, 믿지 않고, 어떤 사람들은 하나님이 우리를 각각의 장소에 보내신다.

 

속에서 우리는 증거되고, 속에 들어온 것으로서 증거하고, 어둠을 비추어 간다.

 

큰일 났다고 생각할 수도 있어

 

하지만 우리를 보내주는 것은 하나님.

 

우리의 빛은 신의 .

 

 

 

그리고 그렇게 되도록 세례자 요한은 세례를 받았으며 우리도 세례를 받았다.

 

세례를 받고 나는 죽어서 새롭게 신의 길을 걷기 시작했다.

 

오늘날말로세례를받았다는것은우리가인간쪽의무엇에의해태어났다는것이아니라우리가신에의해태어났다는것.

 

우리가 빛이라고 말하는 것은 이해하기 어려울지도 모른다.

 

그러나 우리 상당수가 세례를 받았다는 것은 사실.

 

그리고 세례를 받았다는 것은 우리가 사실 하나님의 아들이었다는 .

 

신의 아이는 당연히 빛의 아이

 

우리는 빛의 자식으로서 지금도 어둠을 비추고 있다.