今週の説教「荒れ野で叫ぶ声」(新約聖書・ヨハネによる福音書1章19節から28節)

新約聖書・ヨハネによる福音書1章19節から28節

新约约翰福音1章19-28节

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 约翰所作的见证记在下面:犹太人从耶路撒冷差祭司和利未人到约翰那里,问他说:“你是谁?”他就明说,并不隐晦;明说:“我不是基督。”他们又问他说:“这样,你是谁呢?是以利亚吗?”他说:“我不是。”“是那先知吗?”他回答说:“不是。”于是他们说:“你到底是谁?叫我们好回复差我们来的人。你自己说,你是谁?”他说:“我就是那在旷野有人声喊着说:‘修直主的道路’,正如先知以赛亚所说的。”那些人是法利赛人差来的。他们就问他说:“你既不是基督,不是以利亚,也不是那先知,为什么施洗呢?”约翰回答说:“我是用水施洗,但有一位站在你们中间,是你们不认识的,就是那在我以后来的,我给他解鞋带也不配。”这是在约旦河外伯大尼,约翰施洗的地方作的见证。

 

 

 

 

ヨハネとは、この福音書を書いたヨハネではなく、洗礼者ヨハネ。

 约翰不是写这本福音书的约翰,而是施洗约翰。

人々に自分の罪を悔い改めさせて、洗礼を授けていた人。

 让众人悔改自己的罪,并施洗的人。

そのヨハネは、イエスを証しする人だった。

 这位约翰是见证耶稣的人。

 

 

ヨハネは、普通、証しと聞いてイメージするのとは違う証しをした。

 约翰所作的是和一般听到的见证不一样的见证。

普通、教会で、証しと聞くと、自分から、イエスが自分をどのように導いてくださっているのかを話していくようなイメージ。

 一般,在教会听到作见证,就会想象成是自己讲述耶稣如何引领自己的,是这种感觉。

ヨハネの証しは違う。

 约翰的见证不一样。

人から質問されて答える。

 是有人问他,他作答。

それが証しになっている。

 这成了见证。

 

 

この時、祭司やレビ人たちが、ヨハネのところに来た。

 当时,祭司和利未人来到约翰那里。

祭司やレビ人というのは、神殿で神に仕える人たち。

 祭司和利未人,就是在神殿侍奉神的人。

その人たちを、エルサレムのもっと偉い人たちが遣わした。

 耶路撒冷更厉害的人派他们去的。

立場の高い人たちが、神に仕える仕事の人たちをヨハネのところに送った。

 地位高的人把侍奉神的人派去了约翰那里。

この、祭司やレビ人たちのことが、24節で、ファリサイ派の人たちだったと言われているが、祭司やレビ人はユダヤ教の中のサドカイ派というグループの人たち。

 这些祭司和利未人在24节说是法利赛一派的人,但其实祭司和利未人是犹太教中撒都该派的人。

祭司やレビ人がファリサイ派ということはない。

 祭司和利未人不是法利赛派的。

ファリサイ派というのは、聖書の通りに生活することを大事にして、一生懸命聖書を勉強していた人たちで、別のグループ。

 法利赛派重视按照圣经生活,拼命学习圣经,是不同的群体。

ただ、ファリサイ派もサドカイ派も、イスラエルの国会のメンバーだった。

 不过,法利赛派和撒都该派,都是以色列国会成员。

つまり、国会の中でも立場の高い人たちが、ファリサイ派もサドカイ派も一緒になって話し合って、ヨハネのところに人を送ったということだろう。

 也就是说,在国会中地位高的那些人,法利赛派和撒都该派他们凑在一起,商量决定把人派到约翰那里。

立場の高い人たちは、ヨハネのことを良く思っていなかった。

 那些人,并不待见约翰。

ヨハネは洗礼を授けていたが、ユダヤ人は洗礼を受けることはない。

 约翰施洗,可是犹太人没有受洗。

ユダヤ教では、異邦人がユダヤ教徒になる時に、洗礼が授けられた。

 在犹太教中,外邦人入犹太教时,要受洗。

洗礼というのは、異邦人が受けるものだった。

 受洗是外邦人受的。

ユダヤ人は最初から神の民だから、洗礼を受けることはない。

 犹太人一开始就是神的选民,所以不用受洗。

その洗礼を、ヨハネはユダヤ人にも授けていた。

 而约翰也给犹太人施洗。

そうなると、ユダヤ教の高い立場にある人たちは、良い気持ちにはならない。

 这样的话,犹太教中那些位高权重的人心里就不舒服了。

そもそも、ヨハネは、ユダヤ教のどのグループからも外れたところにいる。

 原本约翰就不属于犹太教的任何派别。

そういう人が、勝手なことをやっている。

 这样的人在任意妄为。

祭司やレビ人は、ヨハネに対して、「あなたはどなたですか」と聞いているが、これは、何の権威でそういうことをやっているのか、一体どういうつもりだ、ということ。

 祭司和利未人问约翰“你是谁?”,这其实是指你凭什么做这样的事,到底想要干什么的意思。

 

 

それに対して、ヨハネは答えた。

 对此,约翰回答说:

20節、「彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した」。

 20节,“他就明说,并不隐瞒,明说‘我不是弥撒亚’。”

メシアというのは旧約聖書に預言されている救い主。

 弥撒亚就是旧约中所预言的救世主。

ヨハネは救い主ではない。

 约翰不是救世主。

次に、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と質問されると、ヨハネは、「違う」と言った。

 接下来又问到“这样,你是谁呢?是以利亚吗?”约翰说“我不是。”

エリヤというのは旧約聖書に出てくる人。

 以利亚是旧约出现的人物。

この人は、生きたまま天に上げられた人で、旧約聖書では、メシアが来る前に、エリヤが来る、と言われている人。

 此人是活着升天的,是旧约所说的,在弥赛亚来临前先来的那人。

エリヤでもない。

 也不是以利亚。

更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。

 又问,“是那先知吗?”他回答说:“不是。”

「あの預言者」というのは、旧約聖書の申命記に書かれている、モーセのような預言者のこと。

 “那先知”是指旧约申命记所写的像摩西那样的先知。

モーセは、いつか、自分のような預言者が現れると言っていた。

 摩西说过,像他自己那样的先知有一天会出现。

自分のように、民をまとめて救い出す預言者が現れると言っていた。

 说像自己那样,聚集民众并救出他们的先知。

ヨハネはモーセとも違う。

 约翰和摩西不同。

 

 

祭司やレビ人たちは困って、ヨハネに言った。

 祭司和利未人迷糊了,对约翰说:

「あなたは自分を何だと言うのですか」。

 “你自己说,你是谁?”

自分のことを自分で証ししなさいということ。

 让他自己证明自己。

ヨハネは聖書の言葉で答えた。

 约翰用圣经的话回答:

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

 “我就是那在旷野有人声喊着说:‘修直主的道路’。”

ヨハネは、「声」だった。

 约翰是“声音”。

声で、証しする。

 用声音做见证。

ヨハネは救い主ではない。

 约翰不是救主。

救いの働きをするのではない。

 不是做救赎的工。

ヨハネは、声を上げて、人々の心を、これからやって来る救い主に向けさせる。

 约翰大声叫喊,让众人的心要向着今后要来的救世主。

そのために、人々に悔い改めの洗礼を授けていた。

 为此,给人施洗,是悔改的洗礼。

それが、「主の道をまっすぐにせよ」ということ。

 这就是“修直主的道路”。

自分の罪を悔い改めて、救い主を受け入れなさいということ。

 就是要悔改自己的罪,接受救世主。

これから、救い主があなたのところに来られる。

 接下来,救世主要来到你那里。

あなたの心の中に、救い主がやって来る道をまっすぐに通しなさい。

 你的内心要直通救世主到来的那条路。

これは、ヨハネがメシアなのか、エリヤなのか、預言者なのか、というようなことよりももっと大事なこと。

 这点比约翰是弥撒亚,还是以利亚,还是先知要更为重要。

ヨハネがメシアなのかエリヤなのか預言者なのかというのは、信仰の本質ではない。

 约翰是弥赛亚,还是以利亚,还是先知,不是信仰的本质。

人間の興味。

 是人的兴趣所在。

大事なのは、主の道をまっすぐにすること。

 重要的是,修直主的道路。

救い主を受け入れること。

 接受救世主。

ヨハネは「荒れ野」で叫んだ。

 约翰在“旷野”叫喊。

人の心が全然神に向かっていない。

 人心完全不在神那里。

人の心の荒れ野。

 人心在旷野。

そこで叫ぶ声だった。

 在那里大声叫喊。

そしてここで、ヨハネは、自分のことを答えることによって、イエスを証ししたと言える。

 而且可以说,约翰在这里,通过对自己的回答,为耶稣做了见证。

ヨハネはこういう証しを最初にした。

 约翰最初是这样做见证的。

 

 

しかし、それでも、質問は終わらない。

 可是,即便如此,提问也没有结束。

この人たちは、ヨハネの話を聞いていない。

 这些人没有听约翰的话。

メシアかエリヤか預言者か、それで頭がいっぱい。

 满脑子都是弥撒亚、以利亚和先知。

「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」。

 “你既不是弥撒亚,不是以利亚,也不是那先知,为什么施洗呢?”

とうとう、この人たちが質問というより、批判してきた。

 这些人与其说是来问话的,其实是来提意见的。

ユダヤ人に洗礼を授けるなんて、普通しないようなことをするなんて、おかしいじゃないか。

 给犹太人施洗,这种事一般是不会做的,你不觉到奇怪吗?

ヨハネは答えた。

 约翰回答说:

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」。

 “我是用水施洗,但有一位站在你们中间,是你们不认识的,就是那在我以后来的,我给他解鞋带也不配。”

このヨハネの答えはもう、質問に対する答えではない。

 约翰的这回答,已经不是对问题的回答了。

自分のことを言うことから始まって、その話がイエスの話になっていく。

 从一开始说自己的事,变成了说耶稣的事。

イエスを証しすることがメイン。

 为耶稣做见证是主要的。

 

 

そしてここに、証しとは何なのか、ということが現れている。

 而且在这里显明了见证是什么。

ヨハネは、「わたしは何なのか」ということを言いながら、自分とイエスの関係を証ししていった。

 约翰述说着“我是谁”,也证明了自己和耶稣的关系。

自分がイエスとのつながりの中で生きていて、だから、自分を語ることが、イエスを語ることになる。

 自己在和耶稣的联结中过活,所以,讲述自己就变成了述说耶稣。

証しというのは、たまたま何かの事件を見た人が、こういうことがあったと説明することではない。

 见证并不是偶然看到什么事情的人,来说明有这样的事。

自分と関係のないことを説明することではない。

 不是说明和自己无关的事。

自分がイエスとどういうふうにつながって生きているか。

 自己和耶稣是如何联结过活的。

イエスが自分にとってどういう方か。

 耶稣对自己而言是怎样的一位。

証しは信仰告白。

 见证是信仰告白。

 

 

今日の20節に、「彼(ヨハネ)は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」とある。

 今天的20节,“他(约翰)就明说,并不隐瞒,明说‘我不是基督。’”

この、「公言して」という言葉は、聖書の元々の言葉で、「告白して」という言葉。

 这里的“公开声明”,用圣经原版的语言来说就是“告白”。

20節の最後の「言い表した」も「告白した」という全く同じ言葉。

 20节的最后的“说明”也是和“告白”完全一样的词汇。

隠さずに信仰を告白することの大切さ。

 毫不隐瞒做信仰告白的重要性。

イエスの弟子のペトロは、イエスのことを聞かれて、三度、それを「打ち消した」ということがあった。

 耶稣的门徒彼得被问到耶稣的事,三次“否认”了。

イエスが捕まった。

 耶稣被捕了。

自分も捕まるかもしれない。

 自己可能也会被捕。

それで、「打ち消した」。

 于是“否认了”。

その「打ち消した」という言葉は、この20節の「隠した」というのと同じ言葉。

 “否认”和20节的“隐瞒”用的是同一个词。

信仰を隠さないこと。

 不要隐瞒信仰。

それは、自分よりもイエスを第一にすること。

 比起自己,更要把耶稣放在第一位。

それが正しい。

 这才是对的。

イエスはこの自分の救い主だから。

 因为耶稣是自己的救世主。

その信仰があれば、自分のことを聞かれた時に、信仰を告白することになる。

 如果有这样的信仰,被问到自己的事时,就会变成信仰告白。

 

 

ヨハネは、イエスの前に、小さな者として生きていた。

 约翰在耶稣的面前,作为一个小人物存在。

27節で、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言っている。

 27节说“那在我以后来的,我给他解鞋带也不配。”

履物のひもを解くというのは、奴隷の仕事。

 解鞋带是奴隶的工作。

自分はイエスに比べると、奴隷よりも低い。

 自己和耶稣相比,比奴隶还低下。

ではヨハネは、自分はつまらない人間だ、どうでもいい人間だと思っていただろうか。

 那么约翰认为自己是无趣的,可有可无的人吗?

そうではない。

 并不是这样的。

今日、自分を批判しに来たような人にも、ヨハネは堂々と答えている。

 对今天前来质疑自己的那些人,约翰自豪地回答。

自分は荒れ野で叫ぶ声だ。

 自己是在那旷野叫喊的声音。

つぶやく声ではない。

 不是小声嘟哝。

叫んでいる。

 是叫喊。

イエスの大きさが分かるから、自分は小さいと言える。

 因为知道耶稣的伟大,所以能说自己卑微。

そして、その大きなイエスとつながっているから、いつも堂々として、力にあふれている。

 而且,因为和这位伟大的耶稣有联结,所以什么时候都能堂堂正正,充满力量。

救い主とのつながりで、自分が何者なのかが分かると、こんなにも強い。

 与救世主联结,知道自己是谁,就会这么厉害。

弟子のペトロは、昔は弱かった。

 门徒彼得,以前软弱。

「あなたのためなら命を捨てます」とまで言っていたが、弱い人だった。

 虽说“可以为你舍命”,但其实是个软弱的人。

救い主とのつながりの中で自分が分かっていなかったから。

 因为不晓得自己在与救世主的联结中。

弟子たちの中で一番になりたいだけだったから。

 只想成为众门徒中的大弟子。

人間の力、人間の思いは弱い。

 人的力量,人的想法是软弱的。

しかし、救い主と結ばれると、変えられる。

 可是,一与救世主相联结,就可以改变。

 

 

私たちにとっても、イエスは救い主。

 对于我们来说,耶稣也是救世主。

私たちも、イエスを証ししたい。

 我们也想要为耶稣做见证。

荒れ野で叫びたい。

 也想要在旷野叫喊。

そこに、救われる人が起こされてくる。

 被救赎的人也在那里被唤醒了。

洗礼者ヨハネは、私たちにそのことも証ししてくれている。

施洗约翰也向我们见证了这一点。

 

 

금주의 설교 황야에서 외치는 소리 (신약성경 요한복음 1 19절에서 28)

 

 

 

요한은 복음서를 요한이 아니라 세례자 요한.

 

사람들로 하여금 자신의 죄를 뉘우치게 하고 세례를 주었던 사람.

 

요한은 예수를 증시하는 사람이었다.

 

 

 

요한은 보통 증시라고 해서 생각하는 것과는 다른 증시를 했다.

 

보통, 교회에서, 증거라고 들으면, 스스로, 예수가 자신을 어떻게 이끌어 주시고 있는지를 이야기하는 같은 이미지.

 

요한의 증시는 다르다.

 

남의 질문을 받고 대답하다.

 

그것이 증명되고 있다.

 

 

 

이때 제사와 TV인들이 요한에게로 왔다.

 

제사나 레비인이란 신전에서 신을 섬기는 사람들.

 

그런 사람들을 예루살렘의 높은 사람들이 보냈다.

 

신분이 높은 사람들이 신을 섬기는 일꾼들을 요한에게 보냈다.

 

, 제사나 레비인들이, 24절에, 파리사이파의 사람들이었다고 말해지고 있지만, 제사나 레비인은 유대교안의 사도카이파라고 하는 그룹의 사람들.

 

제사나 레비인이 파리사이파는 아니다.

 

파리사이파란 성경대로 생활하는 것을 중시해 열심히 성경을 공부하던 사람들로 다른 그룹이다.

 

다만 파리사이파도, 사도카이파도, 이스라엘의 국회 멤버였다.

 

국회 안에서도 입장이 높은 사람들이 파리사이파도 사도카이파도 함께 논의해 요한에게 사람을 보냈다는 뜻일 것이다.

 

위상이 높은 사람들은 요한을 달가워하지 않았다.

 

요한은 세례를 받았지만 유대인은 세례를 받지 않았다.

 

유대교에서는 이방인이 유대교도가 세례를 받았다.

 

세례는 이방인이 받는 것이었다.

 

유대인은 아예 신의 백성이니까 세례를 받을 일은 없다.

 

세례를 요한은 유대인들에게도 내렸다.

 

그렇게 되면, 유대교의 높은 지위에 있는 사람들은, 좋은 기분이 되지 않는다.

 

원래 요한은 유대교의 어느 그룹에서도 벗어난 곳에 있다.

 

그런 사람이 제멋대로 하고 있어.

 

제사나 레비인들은 요한에게 당신은 누구시냐고 묻는데, 이는 무슨 권위로 그런 일을 하고 있는지 도대체 무슨 생각이라는 .

 

 

 

그러자 요한은 대답했다.

 

20 그는 공언하며 숨김없이 나는 메시아가 아니다라고 표현했다.

 

메시아는 구약성서에 예언된 구세주.

 

요한은 구주가 아니다.

 

이어 그럼 뭡니까.당신은 엘리야가 맞느냐는 질문을 받자 요한은 아니다라고 말했다.

 

엘리야란 구약성서에 나오는 사람.

 

사람은 채로 하늘에 올려진 사람으로, 구약성서에서는 메시아가 오기 전에 엘리야가 온다고 하는 사람.

 

엘리야도 아니야

 

이어 당신은 예언가가 맞느냐고 물었더니 그렇지 않다고 답했다.

 

예언자는 구약성서의 신명기에 쓰인 모세 같은 예언자를 말한다.

 

언젠가 모세는 자신과 같은 예언자가 나타날 것이라고 했다.

 

자신처럼 백성들을 모아 구해내는 예언자가 나타난다고 했다.

 

요한은 모세와도 다르다.

 

 

 

제사나 레비인들은 난처해하며 요한에게 말했다.

 

당신은 자신을 뭐라고 합니까?

 

자기를 스스로 증명하라는 .

 

요한은 성경의 말씀으로 답했다.

 

나는 황야에서 외치는 소리다.주님의 길을 똑바로 하라고.

 

요한은 목소리였다.

 

목소리로 증시하다.

 

요한은 구주가 아니다.

 

구원의 기능을 하는 것이 아니다.

 

요한은 언성을 높여 사람들의 마음을 앞으로 다가올 구세주를 향하게 한다.

 

이를 위해 사람들에게 회개의 세례를 내렸다.

 

그것이 주인의 길을 똑바로 하라는 .

 

자신의 죄를 뉘우치고 구주를 받아들이라는 .

 

이제 구세주가 당신에게 온다.

 

구세주가 찾아오는 길을 당신의 마음에서 곧장 통과시켜라.

 

이는 요한이 메시아냐, 엘리야냐, 예언자냐보다 중요한 .

 

요한이 메시아인지 엘리야인지 예언자인지는 신앙의 본질이 아니다.

 

인간의 흥미

 

중요한 것은 주인의 길을 곧게 하는 것이다.

 

구세주를 받아들이라.

 

요한은 황야에서 외쳤다.

 

사람의 마음이 전혀 신에게 있지 않다.

 

사람의 마음의 황야

 

거기서 외치는 소리였다.

 

그리고 여기서 요한은 자신을 대답함으로써 예수를 증시했다고 있다.

 

요한은 이런 증시를 가장 먼저 내놓았다.

 

 

 

하지만 그래도 질문은 끝나지 않는다.

 

사람들은 요한의 말을 듣지 않는다.

 

메시아인지 엘리야인지 예언자인지 머릿속이 찼다.

 

당신은 메시아도, 엘리야도, 예언자도 아닌데 세례를 주십니까.

 

마침내 이들이 질문이라기보다는 비판하고 나섰다.

 

유대인에게 세례를 주다니, 보통 하지 않는 짓을 하다니 이상하지 않은가.

 

요한은 대답했다.

 

"나는 물로 세례를 주는데, 너희들 중에는 너희가 모르는 분이 계시다. 분은 뒤에 오시는 분이고 신발 끈을 자격도 없어요.

 

요한의 대답은 이상 질문에 대한 대답이 아니다.

 

나에 대한 이야기로 시작하여 이야기가 예수 이야기가 되어 간다.

 

예수를 증명하는 것이 .

 

 

 

그리고 여기에 증거란 무엇인가 하는 것이 나타나 있다.

 

요한은 내가 무엇인가를 말하면서 자신과 예수의 관계를 증명해 나갔다.

 

내가 예수와의 유대 속에 살고 있고 그래서 나를 말하는 것이 예수를 말하는 것이다.

 

증거라는 것은, 우연히 어떤 사건을 사람이, 이런 일이 있었다고 설명하는 것은 아니다.

 

자신과 관계가 없는 것을 설명하는 것이 아니다.

 

자신이 예수와 어떻게 연결돼서 살고 있는가.

 

예수가 나에게 어떤 분인가.

 

증시는 신앙고백

 

 

 

오늘 20절에 (요한) 공언해 숨김없이 나는 메시아가 아니다라고 표현했다고 있다.

 

공언해란 말은 성경의 원래 말로 고백해란 .

 

20 마지막 표현도 고백했다는 똑같은 .

 

신앙을 숨기지 않고 고백하는 것의 중요성.

 

예수의 제자 베드로는 예수의 말을 듣고 그것을 부정했다고 말한 적이 있다.

 

예수가 잡혔다.

 

자기도 잡힐 수도 있어

 

그래서 부정했다.

 

지웠다는 말은 20절의 숨겼다는 말과 같은 .

 

신앙을 숨기지 .

 

그것은 자신보다 예수를 먼저 생각하는 것이다.

 

그게 맞다.

 

예수는 자신의 구원주니까.

 

믿음이 있으면 자신에 대해 물어볼 믿음을 고백하는 것이다.

 

 

 

요한은 예수 앞에 작은 자로 살아 있었다.

 

27절에 사람은 뒤에 오는 분이고 나는 신발 끈을 자격도 없다고 했다.

 

신발 끈을 푼다는 것은 노예의 몫이다.

 

나는 예수에 비해 노예보다 낮다.

 

그렇다면 요한은 자신이 하찮은 인간이라고, 아무래도 좋은 인간이라고 생각했던 것일까.

 

그렇지 않다.

 

오늘 자신을 비판하러 듯한 사람에게도 요한은 당당하게 대답한다.

 

나는 황야에서 외치는 소리다.

 

중얼거리는 소리가 아니다.

 

외치고 있다.

 

예수의 크기를 알기 때문에 자기는 작다고 있다.

 

그리고 예수와 연결되어 있기 때문에 언제나 당당하고 힘이 넘친다.

 

구세주와의 유대관계를 통해 자신이 누군지 알면 이렇게 강하다.

 

제자 베드로는 옛날에는 약했다.

 

당신을 위해서라면 목숨을 버리겠습니다라고까지 했지만 약한 사람이었다.

 

구세주와의 유대관계 속에서 자신을 모르고 있었으니까.

 

제자들 중에 1등이 되고 싶을 뿐이었으니까.

 

인간의 , 인간의 생각은 약하다.

 

하지만 구세주와 맺어지면 바꿀 있다.

 

 

 

우리에게도 예수는 구원주.

 

우리도 예수를 증시하고 싶다.

 

황야에서 외치고 싶다.

 

그곳에 구원받을 사람이 일어나게 된다.

세례자 요한은 우리에게 그것도 확인해 주고 있다.