今週の説教「なぜ泣いているのか」(新約聖書・ヨハネによる福音書20章11節から18節)

新約聖書・ヨハネによる福音書20章11節から18節

新约约翰福音20章11-18节

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 马利亚却站在坟墓外面哭,哭的时候,低头往坟墓里看,就见两个天使,穿着白衣,在安放耶稣身体的地方坐着,一个在头,一个在脚。天使对她说:“妇人,你为什么哭?”她说:“因为有人把我主挪了去,我不知道放在哪里。”说了这话,就转过身来,看见耶稣站在那里,却不知道是耶稣。耶稣问她说:“妇人,为什么哭?你找谁呢?”马利亚以为是看园的,就对他说:“先生,若是你把他移了去,请告诉我你把他放在哪里,我便去取他。”耶稣说:“马利亚!”马利亚就转过来,用希伯来语对他说:“拉波尼!”就是“夫子”的意思。耶稣说:“不要摸我,因我还没有升上去见我的父。你往我弟兄那里去,告诉他们说:我要升上去见我的父,也是你们的父;见我的神,也是你们的神。”抹大拉的马利亚就去告诉门徒说:“我已经看见了主。”她又将主对她说的这话告诉他们。

 

マリアがお墓で泣いている。

 马利亚在坟头哭泣。

このマリアはマグダラのマリア。

 这位马利亚是抹大拉的马利亚。

イエスにずっとついてきていた女の人。

 是一直跟随耶稣的人。

その人が、お墓の外に立って泣いている。

 此人站在坟墓外面哭。

イエスが死んで葬られたお墓。

 是耶稣死后被葬的坟墓。

イエスは金曜の夕方にお墓に葬られた。

 耶稣是在星期五傍晚入葬的。

そして、日曜にまたお墓に来てみると、イエスの遺体がない。

 而她星期天再次来到墓地看时,耶稣的遗体不见了。

それで、泣いている。

 于是便哭了。

11節を見ると、マリアは「泣きながら身をかがめて墓の中を見た」。

 看11节,马利亚“一边哭,一边低头往坟墓里看”。

この人はもう何度も、同じことをしていただろう。

 她已经同样的动作做过数次了。

何度も墓をのぞいただろう。

 看过坟墓无数次。

そうすると、いつの間にか、中に天使がいた。

 不知不觉间,发现天使在里面。

普通だったら驚いて言葉も出ない。

 一般的话会吓得连话都说不出来了。

しかし、マリアは天使と普通に話をしている。

 可是,马利亚和天使正常说话了。

悲しくて悲しくて、普通の心の状態ではなかったのだろう。

 因为万分悲痛,都不是正常的心态了吧。

 

 

ここで大事なのは、天使の言葉。

 这里重要的是天使的话语。

「なぜ泣いているのか」。

 “你为什么哭呢?”

これは、どうして泣いているんですか、どんなことがあったから、そんなに悲しいんですか、と質問しているのではない。

 这不是在问为什么哭呢?因为什么事如此伤心呢?

天使はもちろん、イエスが復活したことを知っている。

 天使当然知道耶稣复活的事。

天使は、泣かないでいい、と言いたい。

 天使想说,用不着哭。

でも、マリアにはそれは分からない。

 但是马利亚不明白这点。

マリアは天使に答えた。

 马利亚回答天使说:

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 “因为有人把我主挪了去,我不知道放在哪里。”

マリアはイエスが復活したとは思っていない。

 马利亚没想到耶稣复活。

イエスのことを、遺体としてしか考えていない。

 只把耶稣当作一具尸体。

そして、マリアは後ろを振り向いた。

 于是,马利亚向后转身。

もともとお墓の方を向いていたが、後ろを振り向いた。

 原本是向着坟墓的方向的,这时转过了身。

他のところにイエスの遺体を探そうとしたのかもしれないし、後ろに、誰かがいると感じたのかもしれない。

 可能是想在其它地方找寻耶稣的遗体,也可能是感觉到了身后有人。

そこに、イエスが立っていた。

 耶稣站在那里。

復活したイエス本人がそこにいた。

 复活后的耶稣本人站在那里。

天使が現れたのは、神の言葉を伝えるため。

 天使现身是为了传达神的话语。

だったら、天使が話をすればいい。

 所以,天使说也行。

でも、イエスが現れた。

 但是,耶稣现身了。

イエス本人が来てくれるのなら、天使は最初からいなくてもいいはずなのに、イエスが現れた。

 耶稣本人亲自来的话,天使一开始不出现应该也是可以的,然而耶稣却出现了。

イエスは、マリアの深い悲しみを知って、天使に任せていられなくて、自分で現れたのだろう。

 耶稣是知道了马利亚极度的悲伤,所以无法交托给天使,才亲自现身的吧。

イエスは、悲しむ者を放っておくことはない。

 耶稣放不下伤心欲绝的人。

 

 

しかし、マリアはそれがイエスだと分からなかった。

 可是,马利亚不知道这是耶稣。

イエスはマリアに話しかけた。

 耶稣对马利亚说:

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 “妇人,为什么哭?你找谁呢?”

これは、天使が言おうとしたことと同じ。

 这和天使要说的一样。

もう、泣かなくていい、ということ。

 不必再哭泣了。

あなたは遺体を探しているが、私は復活して、あなたの前にいる。

 你在寻找遗体,但是我复活了,就在你面前。

しかし、マリアはそれがイエスだと分からなかった。

 可是,马利亚不知道这是耶稣。

マリアは言った。

 马利亚说:

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 “若是你把他移了去,请告诉我你把他放在哪里,我便去取他。”

マリアはまだ、イエスのことを遺体だとしか考えていない。

 马利亚还是只把耶稣想成一具尸体。

そして、ここでマリアは、「わたしが、あの方を引き取ります」と言っているが、この「引き取る」という言葉は、13節でマリアが言った、「わたしの主が取り去られました」という時の「取り去られた」と同じ言葉。

 而且在这里,马利亚说“我去取他”,这里的“取”和13节马利亚说的“把我主挪了去”中的“挪去”是同一个词。

つまり、マリアとしては、イエスの遺体が取り去られた、自分はそれを取り返したい、という気持ち。

 也就是说,对马利亚来说,耶稣的遗体被挪去了,她想要去取回来,是这样的心情。

そしてなんと、マリアは、イエスの遺体を取っていったのは、目の前にいるイエス本人だと言っている。

 而对于马利亚来说,挪去耶稣遗体的便是眼前这位耶稣本人。

イエスだと分からないで、庭仕事をしている人だと思って、あなたが遺体を持ち出したんじゃないのかと言っている。

 不知道是耶稣,以为是看园的,所以问他,是不是你把遗体移了去的。

 

 

マリアは、イエスのことを愛していただろう。

 马利亚爱耶稣。

だから、イエスの遺体が墓に納められても、その後、日曜の朝早くにまた、このように、お墓に行った。

 所以,即使耶稣的遗体被安放在了坟墓之后,周日一早还是这般去墓地。

しかし、それはどういう気持ちだろうか。

 这是什么样的心情呢?

イエスの遺体のそばで、イエスのことを思い出したい。

 想在耶稣的遗体边上,回忆耶稣。

イエスと一緒にいて、ああいうことがあった、こういうことがあった。

 和耶稣在一起的时候,有过这样那样的事。

あの時イエスはこういう話をした。

 当时耶稣这样说过。

そういうことを懐かしく思い出したい。

 她想回忆这些事情。

しかしそれは、自分の頭の中にいるイエス。

 可这都是自己脑海中的耶稣。

自分の心の中にいるイエス。

 在自己心里的耶稣。

生きておられるイエスではない。

 不是活生生的耶稣。

生きておられるイエスは、私たちの頭の中に納まらない。

 活生生的耶稣我们的大脑接受不了。

この場面でも、イエスは、予想しない現れ方をした。

 这里也是,耶稣是以我们预想不到的样子出现的。

天使を遣わしているんだから、イエス本人が出てこなくていい。

 因为派天使去了,所以耶稣本人可以不用出现。

でも、本人が現れた。

 但是,本人现身了。

イエスは私たちの心の中にいるのではない。

 耶稣不在我们的心中。

今も、生きて、働いておられる。

 现在也是,他活生生地在作工。

私たちは時々、そのことが分からない。

 我们有时不明白这点。

主よ、どこにおられますか。

 主啊,你在哪里?

そして、悲しむこともある。

 而且也有哀伤的事。

しかし、イエスは、悲しむ弟子を放ってはおかれない。

 可是,耶稣不会放下伤心难过的门徒。

出会ってくださる。

 会来见门徒。

私たちもその時、それがイエスだと分からないかもしれない。

 或许那时候,我们也不知道那是耶稣。

私たちがマリアと同じように、自分の頭の中のイエスにしか心を向けていないなら、それがイエスだとは分からないだろう。

 我们会和马利亚一样,如果只想着自己脑海中的耶稣,就不知道这是耶稣。

しかし、そのような私たちに、イエスは語りかけてくださる。

 可是,耶稣会和这样的我们开口打招呼。

 

 

イエスは、「マリア」と話しかけた。

 耶稣开口说“马利亚”。

生きておられるイエスは、私たちに出会ってくださり、語りかけてくださる。

 活着的耶稣会来见我们,会和我们打招呼。

それも、名前で語りかけてくださる。

 而且,是用名字来招呼。

庭仕事をしている人が、名前を知っているはずがない。

 看园的人不可能知道名字。

分かるように語りかけてくださる。

 为了让马利亚知道,他开口说话了。

その時マリアは、それがイエスであると分かった。

 当时的马利亚知道了这是耶稣。

イエスが復活したことを知った。

 知道耶稣复活了。

復活ということは、頭で考えていても分からない。

 复活这事,用脑子想是想不明白的。

イエスが出会ってくださって、語りかけてくださるから分かる。

 因为耶稣来见我们,并开口说话,所以知道。

 

 

私のことを思い出してみると、私自身は、キリスト教の幼稚園に通っていたので、小さい時からイエスが復活したことを信じていた。

 回忆起我自己的故事,我因为上的是基督教的幼儿园,所以从小就相信耶稣复活的故事。

でも、幼稚園を卒業して小学校に入ると、1年で信仰を無くしてしまった。

 但是,幼儿园毕业一进入小学,一年时间信仰便全没了。

小学校はこの世だった。

 小学就是这个世界。

それでも、イエスが復活したということは本当のことだろうと思っていた。

 即便如此,我觉到耶稣复活这事是真的。

幼稚園の先生たちは素晴らしい人たちで、イエスが今も生きて働いておられるということを上手に教えてくださっていたと思う。

 幼儿园的老师很了不起,我认为他们把耶稣现在也活着在做工这事很巧妙地教给了我们。

先生たちが信じているから、私も信じることができた。

 因为老师们信,所以我也可以信。

でも、幼稚園から出ていくと、もう、イエスが自分に関係のある方だとは思わなくなる。

 但是,出了幼儿园,就不再觉得耶稣和自己有关系了。

イエスの復活は事実だと思うけれども、イエスは自分と関係がないと思ってしまう。

 虽然认为耶稣复活是事实,但是觉得耶稣和自己没关系。

言ってみればそれも、復活のイエスではなくて、遺体のイエス。

 说起来这也不是复活的耶稣, 是死了的耶稣。

復活のイエスだけれども、生きて働いていない。

 复活的耶稣,活着却不做工。

 

 

でも、そうであったとしても、イエスは私に声をかけてくださる。

 但即便如此,耶稣还是跟我打招呼了。

27歳になった時に、教会に通い始めた。

 27岁开始去教会。

そうすると、そこの教会に来たばかりの牧師がいて、その牧師は私とよく似ていた。

后来发现,刚来教会的牧师和我很像。

よく似ていたのは当たり前と言えば当たり前で、それまでに読んできた本がほとんど同じだった。

 很像也是自然,至今读过的书也大致相同。

似ているから同じ本を読むのか、同じ本を読むから似てくるのか、とにかく、話が合う。

 因为像,所以读一样的书,还是因为读一样的书,所以很像呢,总之,很谈得来。

そして、自分と同じ考え方をするその牧師は、イエスが今も生きて働いておられると信じていた。

 而且,和我想法一样的这位牧师,相信耶稣现在也活着在做工。

私はどうしたか。

 后来怎样了呢?

私は、その先生から洗礼を受けた。

 我在那位牧师那里受了洗。

皆さん一人一人にも、どういう形でかは分からないけれど、イエスがあなたを名前で呼んでくださった経験があるはず。

 虽然不知道大家每一个人是怎样的,但肯定会有耶稣呼喊你名字的经历。

だから、皆さんはここにいる。

 所以大家才会在这里。

 

 

イエスがマリアを名前で呼んだ時、マリアは振り向いたと書かれている。

 经上写着说,耶稣用名字喊马利亚的时候,马利亚就转过来。

マリアは最初、墓の方を向いていた、そこで振り向くと、後ろにイエスが立っていた、ということだったはず。

 马利亚一开始是朝着坟墓的方向的,一转身,后面站着耶稣,应该是这样的。

だとしたら、もう一度ここで振り向くと、お墓の方を向くことになってしまう。

 这样的话,再一次转身,就变成又朝着墓地的方向了。

マリアは、イエスと話しながら、それがイエスだとは思わなくて、もう一度お墓の方を向いていたのだろう。

 是马利亚和耶稣说着话,不认为这是耶稣,所以又一次朝向坟墓方向了吧。

それでもまた、イエスはマリアを振り向かせた。

 即使这样,耶稣又让马利亚转身了。

イエスは、私たちの心の向きを変えてくださる。

 耶稣会改变我们心之所向。

 

 

そうすると、どうなるか。

 这样一来,如何了呢?

マリアの言葉が変わる。

 马利亚的话变了。

マリアの言葉のどこが変わったか。

 马利亚的话哪里变了呢?

マリアはもともと、イエスのことを、「わたしの主」とか、「あの方」と呼んでいた。

 马利亚原来称耶稣为“我主”,“他”。

イエスの遺体のことを言っていた時には、そういう言葉をつかっていた。

 说耶稣遗体的时候,用的是这样的词。

しかし、マリアがイエスだと分かって返事をする時には何と言ったか。

 可是,马利亚知道了是耶稣后,回答的时候说了什么呢?

イエスのことを「先生」と言った。

 说耶稣是“夫子”。

先生とは何か。

 夫子是什么?

私に教えてくださり、私を導いてくれる方。

 是教导我,引领我的人。

まして、この「ラボニ」という言葉は、神様を指してつかわれることもある言葉。

 “拉波尼”这词更可以被用作来指神。

主は今も、生きて働いておられる。

 主现在也还活着在做工。

 

 

マリアはイエスにすがりついた。

 马利亚抱住耶稣。

そのマリアに、イエスは言った。

 耶稣对马利亚说:

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。

 “不要摸我,因我还没有升上去见我的父。”

しかし、イエスが天に昇ったら、イエスにすがりつくことはできなくなる。

 可是,耶稣升了天的话,就不能抱耶稣了。

けれども、それでいい。

 但没关系。

イエスの約束があった。

 耶稣有约定。

イエスは、天の父のところから、弟子たちに聖霊を送ってくださる。

 会从天父那里,赐下圣灵给门徒。

そして、神の霊が私たちの中に住んでくださるようになる。

 而且,神的灵会住在我们的里面。

私たちは、いつでも、イエスにすがりつくことができる。

 我们什么时候都可以紧紧地抓住耶稣。

 

 

それが一番大きなこと。

 这是最重要的。

だから、イエスはこの後、マリアに対して、弟子たちに伝えなさいと言うが、弟子たちに伝える内容は、イエスが復活した、ということではない。

 所以,耶稣后来对马利亚说要传消息给门徒,传给门徒的不是耶稣复活。

復活したとしても、それが自分と関係のない話だったら、どうでもいいこと。

 就算复活了,如果是和自己无关的话的内容,根本无所谓。

自分と関係のない話ではない。

 不是和自己无关的话。

自分にとって一番大事なこと。

 是对自己而言最重要的事。

イエスはこれから天に上る。

 耶稣接下来要升上天去。

そして、天から聖霊を下してくださる。

 而且还会从天上降下圣灵。

 

 

それだけでなく、ここでは、わたしの父はあなたがたの父だ、わたしの神はあなたがたの神だと言われている。

 不仅如此,这里还说,我的父也是你们的父,我的神也是你们的神。

その上、弟子たちのことが、「わたしの兄弟」と言われている。

 而且称门徒为“我的弟兄”。

イエスが私たちと全く同じ立場に立ってくださっている。

 耶稣完全和我们站在同一立场。

そして、私たちのために働いてくださる。

 而且,为我们做工。

そのために、イエスは復活した。

 为此,耶稣复活了。

 

 

では、私たちがすることは何か。

 那么,我们要做的是什么呢?

マリアは弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と言った。

 马利亚去了门徒那里,说“我已经看见了主”。

主を証しした。

 见证了主。

自分が経験したことを話した。

 说了自己经历的事情。

私たちはどんなふうにイエスに出会っただろうか。

 我们是如何遇见主的呢?

いや、イエスは、どんなふうに私たちに出会ってくださっただろうか。

 不对,应该说主是如何来见我们的呢?

そして、どんなふうに私たちに働きかけてくださっているだろうか。

 并且,是如何做工在我们身上的。

私たちの心の向きをどんなふうに変えてくださっただろうか。

 如何改变我们的心志的?

私たちの話を聞く人がどういう反応をするかは分からない。

 听我们述说的人会有什么反应我们不知道。

それはここには書かれていない。

 这里也没有写。

マリアの話を聞いた弟子たちのことは、書かれていない。

 没有写听了马利亚所说的之后门徒的反应。

しかし、この場面のすぐ後に、イエスは、弟子たちに現れてくださる。

 可是,在这之后的内容中,耶稣向门徒显现了。

私たちが証しする相手の人が、イエスの弟子、イエスの兄弟であったら、イエスはその人のところにもいらしてくださる。

 我们作见证的对方如果是耶稣的门徒,耶稣的弟兄的话,耶稣也会去他那里。

私たちは、それを信じていい。

 我们要相信这点。

イエスがその人に働いてくださって、心の向きを変えてくださる。

 耶稣会向他做工,改变他的心之所向。

そして、聖霊の導きをいただいて生きる道を開いてくださる。

 而且,会开辟出一条由圣灵引领的道路。

私たちにそうしてくださったように。

 就如同对我们所行的那样。

イエスは今も、働いてくださっている。

 耶稣现在也在做工。

私たちに働いてくださって、私たちが証しする相手にも働いてくださろうとしている。

 向我们做工,也向我们做见证的对方做工。

私たちも私たちの働きをしていこう。

 我们也做我们的工吧。

イエスは、私たちの働きにおいても、働いてくださる。

 耶稣也做工在我们的侍奉上。

そして、私たちが証しするその人も、イエスが主であると信じるようになる。

 而且,我们作见证的对方,也会相信耶稣是主。

私たち自身に起こったことが、私たちが証しする人たちにも起こる。

 发生在我们自己身上的,也会发生在我们做见证的对方身上。

そのようにして私たちは信仰に入ったし、そのようにして、2000年間、信仰が受け継がれてきた。

 就是这样,我们有了信仰, 也是这样,2000年里面,信仰一直延续了下来。

私たちで終わらせたいか。

 难道要在我们这里终止吗?

主と共に生きる生き方を伝えていきたいか。

 想要传扬与主同在的生活吗?

伝えていこう。

 去传福音吧。

主は共におられる。

主与我们同在。

 

 

금주의 설교 우나 (신약성경 요한복음 20 11절에서 18)

 

 

 

마리아가 무덤에서 울고 있다.

 

마리아는 막달라 마리아

 

예수를 계속 따라오던 여자

 

사람이 무덤 밖에 서서 울고 있다.

 

예수가 죽어서 묻힌 무덤

 

예수는 금요일 저녁에 무덤에 묻혔다.

 

그리고 일요일에 다시 무덤에 보니 예수의 유해가 없다.

 

그래서 울고 있다.

 

11절을 보면 마리아는 울면서 몸을 굽혀 무덤 속을 보았다.

 

사람은 벌써 번이나, 같은 일을 하고 있었을 것이다.

 

번이나 무덤을 들여다보았겠지.

 

그러다 보니 어느새 천사가 있었다.

 

보통 같으면 놀라서 말도 나와.

 

그러나 마리아는 천사와 평범하게 이야기를 하고 있다.

 

슬프고 슬프고, 보통 마음의 상태는 아니었을 것이다.

 

 

 

여기서 중요한 천사의 .

 

울고 있나.

 

이것은 울고 있습니까, 무슨 일이 있었기에 그렇게 슬픈 것입니까, 라고 질문하고 있는 것은 아니다.

 

천사는 물론 예수가 부활했음을 안다.

 

천사는, 울지 않아도 된다, 라고 말하고 싶다.

 

그렇지만 마리아에게는 그것은 모른다.

 

마리아는 천사에게 대답했다

 

주인이 없어졌어요.어디에 놓여 있는지 모르겠어요.

 

마리아는 예수가 부활했다고 생각하지 않는다.

 

예수를 시체로만 여긴다.

 

그리고 마리아는 뒤를 돌아보았다.

 

원래 무덤 쪽을 향하고 있었지만 뒤를 돌아보았다.

 

다른 곳에 예수의 시신을 찾으려 했을 수도 있고, 뒤에 누군가가 있다고 느꼈을 수도 있다.

 

그곳에 예수가 있었다.

 

부활한 예수 본인이 그곳에 있었다.

 

천사가 나타난 것은 하느님의 말씀을 전하기 위해서.

 

그럼 천사가 말을 하면 되겠다.

 

그런데 예수가 나타났다.

 

예수 본인이 와준다면 천사는 아예 없어도 되는데 예수가 나타났다.

 

예수는 마리아의 깊은 슬픔을 알고 천사에게 맡겨둘 없어서 스스로 나타난 것일 것이다.

 

예수는 슬퍼하는 자를 방치하지 않는다.

 

 

 

그러나 마리아는 그것이 예수인지 몰랐다.

 

예수는 마리아에게 말을 걸었다.

 

여인이여, 울고 있나.누구를 찾고 있는가.

 

이거 천사가 말하려던 거랑 똑같아.

 

이젠 울지 않아도 된다, 라는 .

 

당신은 시체를 찾고 있지만, 나는 부활해서 당신 앞에 있겠습니다.

 

그러나 마리아는 그것이 예수인지 몰랐다.

 

마리아는 말했다.

 

당신이 그분을 날라갔다면 어디에 두었는지 알려주세요.제가 그분을 데려갈게요.

 

마리아는 아직 예수를 시체로만 여긴다.

 

그리고 여기서 마리아는 내가 그분을 인수하겠습니다라고 말하는데, 인수라는 말은 13절에서 마리아가 했던 나의 주인이 제거되었습니다라고 때의 제거되었다와 같은 .

 

, 마리아로서는, 예수의 유해가 없어졌다, 나는 그것을 되찾고 싶다는 마음.

 

그리고 무려 마리아는 예수의 시신을 가져간 사람은 눈앞에 있는 예수 본인이라고 말한다.

 

예수인 모르고 정원일을 하는 사람인 알고 당신이 시신을 가져간 아니냐고 한다.

 

 

 

마리아는 예수를 사랑했을 것이다.

 

그래서 예수의 시신이 무덤에 모셔져도, 일요일 아침 일찍 이렇게 무덤에 갔다.

 

하지만 어떤 기분일까.

 

예수님의 시신 옆에서 예수님을 떠올리고 싶다.

 

예수랑 같이 있다가 그런 있었어, 이런 있었어

 

그때 예수는 이런 말씀을 하셨다.

 

그런 것들을 그립게 떠올리고 싶다.

 

하지만 그것은 머릿속에 있는 예수.

 

자기 마음속에 있는 예스

 

살아계신 예수가 아니다.

 

살아계신 예수는 우리 머릿속에 자리하지 않는다.

 

장면에서도 예수는 예상치 못하게 나타났다.

 

천사를 부리고 있는데 예수 본인이 나오지 않아도 된다.

 

하지만 본인이 나타났다.

 

예수는 우리 마음속에 있지 않다.

 

지금도 살아서 일하고 계신다.

 

우리는 가끔 그것을 모른다.

 

주여, 어디에 계십니까?

 

그리고 슬퍼하기도 한다.

 

그러나 예수는 슬퍼하는 제자를 내버려둘 없다.

 

만나주신다.

 

우리도 그때 그게 예스인지 모를 있다.

 

우리가 마리아처럼 자기 머릿속의 예수에게만 마음을 돌린다면 그것이 예수인지 모를 것이다.

 

하지만 그런 우리에게 예수는 말을 걸어주신다.

 

 

 

예수는 마리아를 외쳤다.

 

살아계신 예수님은 우리를 만나주시고 말을 걸어주신다.

 

그것도 이름으로 말을 걸어주신다.

 

정원 가꾸는 사람이 이름을 없다.

 

알아들을 있게 말을 걸어주신다.

 

그때 마리아는 그것이 예수라는 것을 알았다.

 

예수가 부활한 것을 알았다.

 

부활은 머릿속으로 봐도 모른다.

 

예수님이 만나주시고 말을 걸어주시니까 같아.

 

 

 

나를 떠올려 보니 나는 기독교 유치원에 다녔기 때문에 어렸을 때부터 예수가 부활한 것을 믿었다.

 

그렇지만, 유치원을 졸업하고 초등학교에 들어가자, 1년만에 신앙을 잃어 버렸다.

 

초등학교는 이승이었다.

 

그래도 예수가 부활했다는 것은 사실일 것이라고 생각했다.

 

유치원 선생님들은 훌륭한 분들로 예수님이 지금도 살아 일하고 계시다는 것을 가르쳐 주신 같다.

 

선생님들이 믿으니까 나도 믿을 있었다.

 

하지만 유치원에서 나가면 이상 예수가 자신과 관계가 있는 분이라고 생각하지 않는다.

 

예수의 부활은 사실이라고 생각하지만 예수는 자신과 관계가 없다고 생각한다.

 

말하자면 그것도 부활의 예수가 아니라 시신의 예수.

 

부활의 예수지만 살아 일하지 않는다.

 

 

 

그러나 그렇다고 해도 예수님은 나에게 말을 걸어 주신다.

 

27세가 되었을 교회에 다니기 시작했다.

 

그러자 교회에 목사가 있었는데 목사는 나와 많이 닮아 있었다.

 

많이 닮은 것은 당연하다고 하면 당연하고, 지금까지 읽어 책이 거의 같았다.

 

비슷하니까 같은 책을 읽는지, 같은 책을 읽으니까 비슷해지는지, 어쨌든 이야기가 맞는다.

 

그리고 자신과 같은 생각을 가진 목사는 예수가 지금도 살아 일하고 계신다고 믿었다.

 

나는 그랬나

 

나는 선생님으로부터 세례를 받았다.

 

여러분 사람 사람도 어떤 형태로인지는 모르지만, 예수님께서 당신을 이름으로 불러주신 경험이 있을 것이다.

 

그래서 여러분들은 여기 있다.

 

 

 

예수가 마리아를 이름으로 불렀을 마리아는 고개를 돌렸다고 쓰여 있다.

 

마리아는 처음에 무덤 쪽을 향하고 있었다, 거기서 돌아보니, 뒤에 예수가 있었다는 것이었을 것이다.

 

그렇다면, 한번 여기서 돌아 보면, 무덤 쪽을 향하게 되어 버린다.

 

마리아는 예수라고 말하면서 그것이 예수라고는 생각하지 않고 다시 무덤 쪽을 향하고 있었던 것이다.

 

그래도 예수는 마리아를 돌아보게 했다.

 

예수님은우리마음을돌려주신다.

 

 

 

그러면 어떻게 될까.

 

마리아의 말이 달라진다.

 

마리아의 말이 뭐가 달라졌을까?

 

마리아는 원래 예수를 '나의 주인'이라든가 ' '이라고 불렀다.

 

예수님의 시신을 말할 때는 그런 용어를 썼다.

 

그러나 마리아가 예수라는 알고 대답할 때는 뭐라고 했던가.

 

예수를 선생님이라고 했다.

 

선생이란 무엇인가.

 

저를 가르쳐주시고 저를 이끌어주시는

 

하물며 라보니라는 말은 신을 가리켜 쓰이기도 하는 말이다.

 

주인은 지금도 살아 일하고 계시다.

 

 

 

마리아는 예수에게 매달렸다.

 

그런 마리아에게 예수는 말했다.

 

내게 매달리지 마세요.아직 아버지 품에 올라가지 않았으니까.

 

그러나 예수가 하늘에 오르면 예수를 따라잡을 없게 된다.

 

하지만, 그것으로 좋다.

 

예수 약속이 있었다.

 

예수는 하늘의 아버지에게서 제자들에게 성령을 내려주신다.

 

그리고 하느님의 영혼이 우리 안에 살아주시게 된다.

 

우리는 언제나 예수에게 매달릴 있다.

 

 

 

그게 제일

 

그래서 예수는 이후 마리아에 대해 제자들에게 전하라고 하지만 제자들에게 전하는 내용은 예수가 부활했다는 것이 아니다.

 

부활한다고 해도 그것이 자신과 관계없는 이야기라면 아무래도 좋다.

 

자신과 상관없는 이야기는 아니야.

 

나에게 가장 소중한

 

예수는 이제 하늘로 올라간다.

 

그리고 하늘에서 성령을 내려주신다.

 

 

 

뿐만 아니라 여기서는, 우리 아버지는 당신들의 아버지이고, 우리 신은 당신들의 신이라고들 말하고 있다.

 

더구나 제자들은 형제라는 말이 있다.

 

예수님께서 우리와 똑같은 입장에 계시다.

 

그리고 우리를 위해 일해 주신다.

 

그래서 예수는 부활했다.

 

 

 

그렇다면 우리가 일은 무엇인가.

 

마리아는 제자들에게 가서 나는 주님을 보았습니다라고 말했다.

 

주인을 증시했다.

 

자신이 겪은 일을 이야기했다.

 

우리는 어떻게 예수를 만났을까?

 

아니, 예수님은 어떻게 우리를 만나 주셨을까.

 

그리고, 어떤 식으로 우리에게 작용해 주고 있을까.

 

우리 마음의 방향을 어떻게 바꿔 주셨을까?

 

우리 얘기를 듣는 사람들이 어떤 반응을 보일지는 모르겠어.

 

그것은 여기에는 씌어 있지 않다.

 

마리아의 말을 들은 제자들은 적혀 있지 않다.

 

그러나 장면 바로 뒤에 예수는 제자들에게 나타나신다.

 

우리가 증시하는 상대가 예수의 제자, 예수의 형제라면 예수는 사람에게도 와주신다.

 

우리는 그걸 믿어도 .

 

예수님께서 사람에게 일해 주시고, 마음을 돌려 주신다.

 

그리고 성령의 인도를 받으며 살길을 열어 주신다.

 

저희에게 그렇게 해주신 것처럼

 

예수님은 지금도 일해 주신다.

 

우리에게 일해 주시고, 우리가 입증하는 상대에게도 일해 주시려 하고 있다.

 

우리도 우리 일을 나가자.

 

예수님은 우리 활동에 있어서도 일해 주신다.

 

그리고 우리가 증시하는 사람도 예수가 주인이라고 믿게 된다.

 

우리 자신에게 일어난 일이 우리가 입증하는 사람들에게도 일어난다.

 

그렇게 해서 우리는 신앙에 들어갔고 그렇게 2000 동안 신앙이 이어져 왔다.

 

우리끼리 끝내고 싶어?

 

주인과 함께 살아가는 방식을 전하고 싶은가.

 

전달해드려야지.

 

주인은 함께 계신다.