新約聖書・ヨハネによる福音書1章35節から42節
新约・约翰福音1章35-42节
35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
再次日,约翰同两个门徒站在那里。他见耶稣行走,就说:“看哪,这是神的羔羊!”两个门徒听见他的话,就跟从了耶稣。耶稣转过身来,看见他们跟着,就问他们说:“你们要什么?”他们说:“拉比,在哪里住?”耶稣说:“你们来看。”他们就去看他在哪里住,这一天便与他同住。那时约有申正了。听见约翰的话跟从耶稣的那两个人,一个是西门彼得的兄弟安得烈。他先找着自己的哥哥西门,对他说:“我们遇见弥赛亚了。”于是领他去见耶稣。耶稣看着他说:“你是约翰的儿子西门,你要称为矶法。”
いよいよ、イエスの弟子になる人が現れる。
终于,耶稣的门徒出场了。
そして、一人の弟子は名前まで付けてもらった。
并且,其中一名弟子连名字都赐了。
ユダヤの言葉で「ケファ」。
犹太人的语言叫做“矶法”。
新約聖書はギリシャ語で書かれたが、ギリシャ語では「ペトロ」。
新约是用希腊语写的,希腊语叫“彼得”。
「ケファ」も「ペトロ」も「岩」という意味になる。
“矶法”和“彼得”都是“磐石”的意思。
しかし、ここで、不思議な気持ちになる人もいるだろう。
可是,这里有人会觉得有点不对劲吧。
これは他の福音書に書かれている話と違う。
这和其它福音书写的不一样。
今日の話では、ペトロがイエスに最初にあったその日に、ペトロという名前を付けてもらったということになっている。
今天的内容中,彼得在初见耶稣的那天,赐给了他彼得的名字。
しかし、他の福音書では、ペトロがイエスの弟子になって、ずっとイエスに従っていくようになって、その中で、ペトロがイエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白して、その時に、イエスがペトロに、「あなたはペトロ」と言った。
可是,在其它福音书中,彼得做了门徒,一直追随耶稣,在此期间,彼得信仰告白称耶稣为“你是基督,是永生神的儿子”,那时,耶稣对彼得说“你是彼得”。
それは、あなたの信仰は教会の土台になる岩のようなものだ、ということ。
这是说你的信仰就如同那教会基石的磐石。
この時代の建物の土台は岩だった。
当时建筑的基石是磐石。
だから、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言った。
因此说“我要把我的教会建在这磐石上”。
つまり、今日の話では、いつ、どうやって名前を付けられたのかが全然違う話になっている。
也就是说,在今天的内容中,什么时候取名字的,怎么取的,与之前的完全不同。
もっと言うと、イエスの弟子たちがどうやって弟子になったのかということからして、全然違う話になっている。
甚至可以说,就耶稣的门徒是如何成为门徒的这点来看,也全然不同。
他の福音書では弟子たちはどうして弟子になったか。
其它福音书中门徒是如何成为门徒的呢?
イエスが、「わたしに従いなさい」と言った。
耶稣说“跟从我来”。
弟子たちはその一言で弟子になった。
因为这一句话,就成了门徒。
しかし、今日の話は違う。
可是,今天的内容不一样。
イエスのことを神の小羊だ、メシアだと証しする言葉を聞いたから、それを聞いて、弟子になったという話。
因为听了见证说耶稣是神的羔羊,是弥撒亚之后,做了耶稣的门徒。
一体どちらが正しいのか。
到底哪个是对的呢?
ヒントになることがある。
有提示。
この福音書の2章22節に、「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と書かれている。
这本福音书的2章22节,“所以到他从死里复活以后,门徒就想起他说过这话,便信了圣经和耶稣所说的。”
この福音書の少し後のところ、2章22節には、弟子たちがイエスを信じるようになったのはイエスが復活した後のことで、それまで、弟子たちは、イエスが旧約聖書に預言されている救い主だと分かっていなかったと書かれている。
在这本福音书稍后的内容中,2章22节,写了门徒相信耶稣是在耶稣复活之后,之前门徒不知道耶稣就是旧约所预言的救世主。
それなのに、今日のところでは、最初から信じていたように書かれている。
然而在今天的内容中写着一开始就相信了。
これは、イエスを信じて弟子になるとはどういうことなのか、ということがここに短くまとめられているということ。
这是因为把信耶稣并成为门徒是怎么一回事,在这里作了缩减。
私たちも、イエスを信じて弟子になった。
我们也是信耶稣,成了耶稣的门徒。
ただ、その時、私たちに具体的に何があったのかは、人によって違う。
不过,当时具体发生了什么,这是因人而异的。
具体的なことを挙げていったら、人によって全く違っていると思う。
要说具体的话,我想每个人都完全不同。
しかし、共通点もあるはず。
可是,应该是有共同之处的。
そして、大事なところほど、共通していると思う。
而且,我想重要的地方是相同的。
今日のところで書かれているのはそういう話。
今天内容中写的就是这点。
弟子になるとはどういうことか、短く言うとこういうこと、というのが今日の話。
如何成为门徒,简而言之是这样的,这就是今天的内容。
その一つのパターンが、今日の最初のところ。
第一点,在今天内容的最前面。
洗礼者ヨハネという人がいて、この人は人々を悔い改めさせて、洗礼を授けていた。
有叫做施洗约翰的人,让众人悔改,并施洗。
その人には弟子がいた。
他有门徒。
先生がその弟子に言う。
对他的门徒说:
「見よ、神の小羊だ」。
“看哪,这是神的羔羊。”
あの人は、人々の罪を背負って、人々の代わりに犠牲になって、人を救う人、メシアだ。
那人是背负众人罪,代替众人死,救赎人的弥赛亚。
それを聞いて、ヨハネの弟子がイエスの弟子になっていく。
听了这,约翰的门徒去做了耶稣的门徒。
弟子たちはそれまで別の人に従っていたけれども、その人が証しをしたから、イエスの弟子になる。
门徒之前虽然追随的是别人,但是因为作了见证,于是便成了耶稣的门徒。
証しを聞いて、弟子になる。
听了见证,变成了门徒。
そして、その弟子たちもすぐ後で証ししていくことになるので、証しということが弟子になるということにおいて、一番大事なこと。
而且,这些门徒之后也去作见证了,所以作见证是成为门徒最重要的事。
そして、証しには力がある。
而且,见证中有大能。
「見よ、神の小羊だ」という一言で、二人の人がイエスの弟子になった。
“看哪,神的羔羊”就因这一句话,两人成了耶稣的门徒。
証しには力がある。
见证中有大能。
もう一つ言うと、この時、洗礼者ヨハネは、歩いておられるイエスを見つめていた。
还有一点,当时,施洗约翰盯着行走中的耶稣看。
じっと見ていた。
定睛看。
イエスを見つめた上で証しするということ。
定睛看,在此基础上作见证。
イエスはこの時、自分の方に歩いてきたわけではない。
耶稣当时并不是朝着约翰走来。
どこかの誰かのところに行こうとしていたということだろうか。
是要去其他人那里的吧。
そうだったとしても、じっと見つめる。
就算这样,还是定睛看他。
イエスは何をしようとしておられるだろうか。
耶稣要做什么呢?
自分にとっては関係のないことかもしれない、でも、じっと見つめる。
或许是和自己没有关系的事,但还是定睛看他。
それくらい、イエスの働きは決定的だということ。
如此坚信耶稣所行的事是决定性的。
その上で、証しすると、その証には力がある。
在此基础上作见证,这见证是有大能的。
二人の弟子は、イエスの後を付いて行った。
那两个门徒跟在耶稣后面走了。
そうすると、イエスが振り返って、「何を求めているのか」と聞いてきた。
于是,耶稣回过头问“你们要什么?”
二人はイエスに、「どこに泊まっておられるのですか」と聞いた。
两人问耶稣“在哪里住?”
イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言った。
耶稣说“来看了就知道了。”
そして、二人はイエスが泊まっているところに泊まった。
于是,两人就住在了耶稣入住的地方。
これは何か不思議なやり取りのように思える。
这对话感觉有点不可思议。
しかしこれは、この時代に人を弟子にする時のルール。
可这是当时要做门徒时的规矩。
この人の弟子になりたいと思ったら、まず、何も言わずにその先生の後に付いて行く。
想要做那人门徒的话,首先是一言不发地跟在先生后面走。
ある時、先生が振り返って、「何を求めているのか」と聞いてくる。
先生回头问“要什么”的时候。
弟子になりたい人は、「どこに泊まっておられるのですか」と聞く。
想做门徒的人要问“在哪里住?”
先生がその人を弟子にしてもいいと思ったら、「来なさい。そうすれば分かる」と言う。
先生如果觉到此人可以做门徒的话,就说“来看了便明白了”。
もし、先生がその人を弟子にしたくないと思ったら、「お前と何の関係があるのか」と言うのだそう。
如果先生不想让此人做门徒的话,就要说“跟你有什么关系”。
つまり、ここで言われていることは、自分のもともとの先生から証しを聞いて、自分から、イエスの弟子になろうと思った、ということ。
就是说, 这里所说的是,听了自己先前老师的见证,想要做耶稣的门徒。
前の先生よりもこの新しい先生の方が素晴らしい先生なんだろうと思ったということ。
相比之前的老师,认为这位新老师更厉害。
逆に言うと、まだこの弟子たちは、イエスが神の小羊だ、救い主だ、メシアだということまでは分かっていない。
反而言之,两位门徒尚未知晓耶稣就是神的羔羊,是救世主,是弥撒亚。
しかし、それでもイエスは受け入れてくださる。
可即便如此,耶稣还是接受了。
私たちも同じ。
我们也是。
私たちは、イエスのことを、最初に聞いたその時から、救い主だと分かっていただろうか。
我们从一开始听到的时候起就知晓了耶稣就是救世主吗?
それでも、イエスは私たちを受け入れてくださった。
但就算这样,耶稣还是接受了我们。
そして、イエスのところに泊めてもらったらどうなるか。
那么,住到耶稣住的地方,又会怎样呢?
二人の弟子の言うことが変わった。
两人所说的改变了。
もともと、イエスのことを「ラビ」と呼んでいたのに、「わたしたちはメシアに出会った」と言うようになった。
原先,称耶稣为“拉比”,变成了“我们遇见弥赛亚了”。
私たちが勘違いしていても、イエスがご自分のことを私たちに分からせてくださる。
就算我们弄错了,耶稣也会让我们知晓他。
そして、それだけでなく、私たちを証しする者にしてくださる。
而且,不仅如此,还会让我们变成见证者。
そして、証ししただけではない。
而且不只是作见证。
アンデレは証ししてから、シモンをイエスのところに連れて行った。
安得烈作了见证后,把西门带到了耶稣那里。
連れて行くまでがアンデレの仕事だった。
安得烈的任务是要把西门带去耶稣那里为止。
証しが第一、連れて行くのが第二。
第一是作见证,第二是带去见耶稣。
そうすると、イエスはシモンのことを知っていた。
这样一来,耶稣便知道了西门。
これは聖書の他の場面でも、よく似たことがある。
这在圣经的其它地方也是很相似的。
ルカによる福音書に「ザアカイ」という人が出てくる。
路加福音中出现了叫做“撒该”的人。
ザアカイはイエスを見たことがない。
撒该没有见过耶稣。
人がたくさんいる中で何とかしてイエスを見ようとして、木に登ってイエスを見下ろす。
无论如何都想要在人群中见一下耶稣,所以爬上了树。
そうすると、イエスの方から、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
于是,耶稣说:“撒该,快下来!今天我必住在你家里。”
イエスはザアカイのことを知っていた。
耶稣知道了撒该。
もう一つ言うと、イエスの方から、「あなたの家に泊まりたい」と言ってくださることもあるのだということ。
还有一点就是,耶稣会说“要住到你家里”。
今日の話では、弟子たちがイエスのところに泊めてもらった話だが、イエスの方から泊まりたいとおっしゃってくださる場合もある。
在今天的内容中虽然是门徒住到了耶稣那里,但是耶稣说要住到人家里的情况也有。
泊めてもらうのか、泊めさせるのか。
住耶稣那里还是让耶稣住进来。
この違いは大きな違いではない。
并没有很大的区别。
「泊まる」という言葉は、他のところでは、「留まる」とか「つながる」と書かれている。
“住”在其它地方写作“停留”或“联结”。
イエスの元に留まる。
停留在耶稣那里。
イエスにつながる。
与耶稣联结。
そうしていれば、分かってくる。
这样的话便明白了。
イエスがただの先生ではなく、救い主であるということ。
耶稣不只是老师,是救世主。
そして、イエスは前々から私のことを知っておられたということ。
而且,耶稣很早就知道了我。
むしろ、イエスに知らないことはない。
没有耶稣不知道的。
この福音書は、イエスのことを、世の初めからおられた神の言葉だと書いている。
这本福音书把耶稣写作太初就有的神的道。
イエスはすべて分かっておられて、私たちを受け入れ、私たちを弟子にしてくださる。
耶稣知晓一切,接受我们,让我们做门徒。
そして、新しい名前を与えてくださる。
并且赐下新的名字。
私たちを新しくしてくださる。
重新塑造我们。
もともとはシモンという名前だった。
原来叫做西门。
シモンというのは小石という意味の言葉。
西门是小石头的意思。
小石が岩に変えられる。
小石头变成了磐石。
イエスがペトロという名前を付けたのは、他の福音書を読むと、ペトロがイエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時のことだったが、そんな信仰告白をしたペトロでも、ずっと岩だったわけではない。
读其它福音书便知道,耶稣取名彼得是在彼得说耶稣“你是基督,是永生神的儿子”的时候,但就算是如此信仰告白的彼得,也并非一直都是磐石。
イエスが逮捕されるとペトロは逃げ出してしまった。
耶稣被捕的时候彼得逃跑了。
その後は、怖くて家の中に閉じこもっていた。
之后因为害怕躲在家中闭门不出。
ペトロはなかなか岩にはなれなかった。
彼得没能成为磐石。
ペトロは小石だった。
彼得是小石子。
信仰告白は良かったけれども、それについて、聖書に書かれている。
信仰告白虽然很好,但是就这一点,圣经写到。
その時、イエスはペトロに言った。
当时,耶稣对彼得说:
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。
“这不是属血肉的指示你的,乃是我在天上的父指示你的。”
人間は自分の力では岩にはなれない。
人无法用自己的能力变成磐石。
神の力で、信仰告白ができる。
因着神的大能,才能进行信仰告白。
そして、十字架と復活の後、聖霊が、神ご自身が降ってきてくださって、そこから、ペトロは岩になっていく。
于是,在十字架和复活之后,圣灵,就是神自己降临,自此,彼得成了磐石。
その上に教会を建てるような信仰を現していく。
在这之上建立教会的信仰显露出来。
その信仰の上に、教会が出来上がっていく。
在此信仰之上,教会建成了。
私たちにも、小石のようなところはないだろうか。
我们没有小石子那样的时候吗?
誰にでもある。
谁都有。
大事なのは、私たちがイエスに留まること。
重要的是,我们在耶稣那里驻足。
イエスにつながること。
与耶稣联结。
そうすれば、イエスが私たちを岩にしてくださる。
如此,耶稣就可以让我们成为磐石。
いや、もう私たちは岩。
不,我们已经是磐石了。
私たちは聖霊を与えられている。
已经赐我们圣灵了。
もし私たちが人間の力を捨てて、神の力だけを求めるなら、私たちはもうそれだけで岩。
如果我们舍弃人的能力,只求神的大能的话,我们就已经是磐石。
私たちがどのように用いられるのかは人によって違うだろう。
我们如何被使用,这点因人而异。
ペトロは後になって、教会を建て上げる中心的な働きをしていった。
彼得之后以建立教会为中心做工。
今日、ペトロをイエスのところに連れていったアンデレは、今日の場面の他にも3回、登場してくるが、3回の内、2回は、他の人をイエスのところに連れてくる働きをしている。
今天把彼得带到耶稣那里的的安得烈,其它地方也出现了3次,3次中有2次把别人带到耶稣那里。
アンデレは人を連れてくる人。
安得烈把人带到耶稣那里。
しかし、いずれにしても、同じ働きをしているのではないかと思う。
可尽管如此,我想大家还是做同样的工。
イエスを証しすること。
就是见证耶稣。
証しがあるから人をイエスのところに連れて行けるし、証しがあるから教会が立って、大きくなっていく。
因为有见证,才能把人带到耶稣那里,因为有见证才能建立教会,扩大教会。
実際、アンデレもペトロも、死ぬまでイエスを証しし続けたと伝えられている。
事实上,安得烈也好,彼得也好,至死都一直在为耶稣作见证。
私たちも、証ししていきたい。
我们也要做见证。
イエスを見つめながら、イエスによって変えられながら、証ししていきたい。
定睛看耶稣,因耶稣而改变,为耶稣作见证。
そうする時、私たちの証しする相手が変えられて、その人にも新しい人生が開かれていく。
到那时,我们作见证的对象也会改变,也会开辟新的人生。
私たちがそうなったように、その人も変えられて、その人も証しする人に変えられていく。
就如同我们一样,那人也会改变,也会变成见证人。
教会は、そうやって世界中に広がってきた。
教会就是这样在全世界扩张的。
今は、地球の裏側のこの場所にも教会がある。
如今,在地球的另一面,这个地方也有了教会。
しかし、私たちの周りには、救われていない人がどれだけいるか。
可是,在我们的周围,有多少人没有被救赎呢?
その人たちの救いは、私たちの証しにかかっている。
这些人的救赎决定于我们的见证。
そして、私たちが証しする時、救い主イエス・キリストが働いてくださる。
我们作见证的时候,救世主耶稣基督会做工。
금주의 설교 제자
신약성서 요한복음 1장 35절에서 42절
35 그 다음날 요한은 두 제자와 함께 있었다.36 그리고는 걷고 계시는 예수님을 바라보며 보라 하나님의 어린 양이라고 했다.37 두 제자는 그 말을 듣고 예수를 따랐다.38 예수님은 뒤돌아보며 그들이 따라오는 것을 보고 무엇을 원하느냐고 말씀하셨다.이들이 랍비-선생님이라는 뜻-어디에 묵고 계십니까라고 말하자 39예수는 오라.그래야 안다"는 말을 들었다.그래서 그들은 따라가 어디에 예수님이 머물고 계신지 보았다.그리고 그날은 예수님의 품에 머물렀다.오후 4시쯤의 일이다.40 요한의 말씀을 듣고 예수를 따른 두 사람 중 한 사람은 시몬 베드로의 형제 안데레였다.41 그는 먼저 자신의 형제 시몬을 만나 우리는 메시아 기름을 부은 자라는 의미를 만났다고 말했다.그리고 시몬을 예수님께 데려갔다.예수님은 그를 바라보며 당신은 요한계신데 계화 바위라는 뜻이라고 부르기로 한다고 하셨다.
드디어 예수의 제자가 되는 사람이 나타난다.
그리고 한 제자는 이름까지 붙였다.
유대 말로 개화.
신약성경은 그리스어로 쓰였지만 그리스어로는 페트로.
개화도 베드로도 바위라는 뜻이 된다.
그러나 여기서 이상한 기분이 드는 사람도 있을 것이다.
이는 다른 복음서에 적혀 있는 이야기와 다르다.
오늘 이야기에서는 베드로가 예수님이 처음 있던 그날에 베드로라는 이름을 지어주셨다는 것으로 되어 있다.
그러나 다른 복음서에서는 베드로가 예수의 제자가 되어 계속 예수를 따르게 되고, 그 안에서 베드로가 예수를 "당신은 메시아, 사는 하나님의 아들이십니다"라고 신앙을 고백했고, 그때 예수가 베드로에게 "당신은 베드로"라고 했다.
그것은, 당신의 신앙은 교회의 토대가 되는 바위 같은 것이다, 라는 것.
이 시대 건물의 토대는 바위였다.
그래서 나는 이 바위 위에 나의 교회를 세우겠다고 했다.
즉 오늘 이야기에서는 언제 어떻게 이름을 붙였느냐가 전혀 다른 이야기가 되고 있다.
더 말하면 예수의 제자들이 어떻게 제자가 됐는가 하는 것부터가 전혀 다른 이야기가 되고 있다.
다른 복음서에서 제자들은 왜 제자가 됐을까.
예수님이 나를 따르라고 하셨다.
제자들은 그 한마디로 제자가 됐다.
그러나 오늘의 이야기는 다르다.
예수님을 하나님의 어린 양이다, 메시아라고 증명하는 말씀을 들었기 때문에 그 말을 듣고 제자가 되었다는 이야기.
도대체 어느 쪽이 옳은 것인가.
힌트가 될 수 있다.
이 복음서 2장 22절에 예수님이 죽은 자 중에서 부활하셨을 때 제자들은 예수님이 이런 말씀을 하셨던 것을 떠올리며 성경과 예수님이 말씀하신 말씀을 믿었다고 적혀 있다.
이 복음서의 얼마 후 2장 22절에는 제자들이 예수를 믿게 된 것은 예수가 부활한 후의 일로 그때까지 제자들은 예수가 구약성경에 예언되어 있는 구원주임을 알지 못했다고 적혀 있다.
그런데도 오늘날에는 처음부터 믿었던 것처럼 적혀 있다.
이것은 예수를 믿고 제자가 된다는 것은 어떤 것인가 하는 것이 여기에 짧게 정리되어 있다는 것이다.
우리도 예수를 믿고 제자가 됐다.
다만 그때 우리에게 구체적으로 무슨 일이 있었는지는 사람마다 다르다.
구체적인 것을 들어보면 사람마다 전혀 다르다고 생각한다.
하지만 공통점도 있을 것이다.
그리고 중요한 부분일수록 공통적이라고 생각한다.
오늘 근데 적혀있는 건 그런 얘기.
제자가 된다는 것은 어떤 것인가, 짧게 말하면 이런 것이다, 라고 하는 것이 오늘의 이야기.
그 하나의 패턴이 오늘의 첫 번째 부분.
세례 요한이라는 사람이 있었는데, 이 사람은 사람들을 회개시키고 세례를 내렸다.
그 사람에게는 제자가 있었다.
선생님이 그 제자에게 말한다.
보라 신의 어린 양이다.
저 사람은 사람들의 죄를 지고 사람들을 대신해 희생하고 사람을 구하는 사람 메시아다.
그 말을 듣고 요한의 제자가 예수의 제자가 되어 간다.
제자들은 그때까지 다른 사람을 따르다가 그 사람이 증거를 대었으니 예수의 제자가 된다.
증거를 듣고 제자가 되다.
그리고 그 제자들도 곧 나중에 증명해 나가게 되므로 증거라는 것이 제자가 된다는 점에서 가장 중요한 일이다.
그리고 증거에는 힘이 있다.
보라 하나님의 어린 양이다라는 한마디에 두 사람이 예수의 제자가 됐다.
증거에는 힘이 있다.
또 한 가지 말하자면 이때 세례자 요한은 걷고 계신 예수를 바라보고 있었다.
가만히 보고 있었다.
예수를 바라본 뒤 증거한다는 것.
예수님이 이때 자기 쪽으로 걸어온 것이 아니다.
어디 누군가에게 가려고 했단 말인가.
그랬더라도 물끄러미 바라본다.
예수님은 무엇을 하려는 것일까.
내게는 상관없는 일일지도 모른다, 하지만 가만히 바라본다.
그만큼 예수의 역할은 결정적이라는 것.
그런 다음, 증명하면, 그 증거에는 힘이 있다.
두 제자는 예수의 뒤를 따랐다.
그러자 예수님이 뒤돌아보며 무엇을 원하느냐고 물었다.
두 사람은 예수님께 어디에 머무르고 계십니까라고 물었다.
예수님은 오라.그래야 알 수 있다고 말했다.
그리고 두 사람은 예수님이 머무시는 곳에 머물렀다.
이것은 뭔가 이상한 주고받는 것 같다.
그러나 이는 이 시대에 사람을 제자로 삼을 때의 규칙.
이 사람의 제자가 되고 싶으면 먼저 말없이 그 선생님을 따라간다.
어느 때 선생님이 뒤돌아보며 무엇을 원하느냐고 묻는다.
제자가 되고 싶은 사람은 어디에 머무르고 계십니까라고 묻는다.
선생님이 그 사람을 제자로 삼으셔도 된다고 생각하시면 오세요.그래야 알 수 있다고 말했다.
만약선생님이그사람을제자로만들고싶지않다면너와무슨관계가있느냐고하는거란다.
즉, 여기서 말하는 것은, 자신의 원래 선생님으로부터 증거를 듣고, 자신으로부터, 예수의 제자가 되고자 했다, 라는 것.
예전 선생님보다 이 새로운 선생님이 더 멋진 선생님일 거라고 생각했다는 것.
반대로 말하면 아직 이 제자들은 예수님이 하나님의 어린 양이다, 구원자다, 메시아라는 것까지는 알지 못한다.
하지만 그래도 예수님은 받아주신다.
우리도 마찬가지다.
우리는 예수님을 처음 듣는 그때부터 구원자임을 알았을까.
그래도 예수님은 우리를 받아주셨다.
그리고 예수님께 머물게 되면 어떻게 될까.
두 제자의 말이 바뀌었다.
원래 예수를 라비라고 불렀는데 우리는 메시아를 만났다고 말하게 됐다.
우리가 착각하고 있더라도 예수님이 자신을 우리에게 알게 해 주신다.
그리고 그뿐만 아니라 우리를 증명하는 자로 만들어 주신다.
그리고 증명만 한 것은 아니다.
안데레는 증명하고 나서 시몬을 예수께로 데려갔다.
데리고 가기까지가 안데레의 일이었다.
증거가 첫째, 데려가는 것이 둘째.
그러자 예수님은 시몬을 알고 계셨다.
이는 성경의 다른 장면에서도 비슷한 점이 있다.
루카 복음서에 자카이라는 사람이 나온다.
자카이는 예수를 본 적이 없다.
사람이 많은 가운데 어떻게든 예수를 보려고 나무에 올라가 예수를 내려다본다.
그러자 예수님께서 자카이 서둘러 내려오너라.오늘은 꼭 당신 집에 머물고 싶다.
예수님은 자카이에 대해 알고 계셨다.
또 한 가지 말하자면 예수님께서 너희 집에 머물고 싶다고 말씀해주실 수도 있다는 것.
오늘 이야기에서는 제자들이 예수님께 머물게 하신 이야기인데 예수님께서 묵고 싶다고 말씀해주시는 경우도 있다.
재워줄 것인가, 재워줄 것인가.
이 차이는 큰 차이가 아니다.
머문다는 말은 다른 곳에서는 머문다거나 이어진다고 적혀 있다.
예수님의 품에 머무르다.
예수님께 연결되다.
그러다 보면 알게 된다.
예수님이 그냥 선생님이 아니라 구원자라는 것.
그리고 예수님은 예전부터 나를 알고 계셨다는 것.
오히려 예수님께 모르는 것이 없다.
이 복음서는 예수님을 세상 처음부터 계셨던 하나님의 말씀이라고 쓰고 있다.
예수님은 다 알고 계시고 우리를 받아들이고 우리를 제자로 삼으신다.
그리고 새로운 이름을 주신다.
저희를 새롭게 해주신다.
원래는 시몬이라는 이름이었다.
시몬은 조약돌이라는 뜻의 말.
조약돌이 바위로 바뀌다.
예수님이 베드로라는 이름을 붙인 것은 다른 복음서를 읽으면 베드로가 예수님께 "당신은 메시아, 사는 하나님의 아들이에요"라고 했을 때의 일이었지만 그런 신앙고백을 한 베드로도 계속 바위였던 것은 아니다.
예수가 체포되자 베드로는 도망쳐 버렸다.
그 뒤엔 무서워서 집안에 틀어박혀 있었다.
페트로는 좀처럼 바위가 될 수 없었다.
페트로는 조약돌이었다.
신앙고백은 좋았지만 그것에 대해 성경에 쓰여 있다.
그때 예수는 베드로에게 말했다.
당신에게 이 일을 나타낸 것은 인간이 아니라 나의 하늘의 아버지이다.
인간은 자기 힘으로는 바위가 될 수 없다.
신의 힘으로 신앙고백을 할 수 있다.
그리고 십자가와 부활 후 성령께서 하나님 자신이 내려주시고 거기서 베드로가 바위가 되어간다.
그 위에 교회를 세우는 듯한 신앙을 드러낸다.
그 믿음 위에 교회가 완성된다.
우리에게도 조약돌 같은 곳은 없을까.
누구에게나 있다.
중요한 것은 우리가 예수님께 머무르는 것이다.
예수로 이어지는 것.
그러면 예수님께서 우리를 바위로 만들어 주신다.
아니 이제 우리는 바위.
우리는 성령을 받고 있다.
만약 우리가 인간의 힘을 버리고 신의 힘만 찾는다면 우리는 이제 그것만으로 바위.
우리가 어떻게 사용되는지는 사람마다 다를 것이다.
베드로는 뒤늦게 교회를 세우는 중심적인 일을 해 나갔다.
오늘날 베드로를 예수님께 데려간 안데레는 오늘 장면 외에도 세 번 등장하는데, 세 번 중 두 번은 다른 사람을 예수께 데려오는 일을 하고 있다.
안데레는 사람을 데려오는 사람.
그러나 어쨌든 같은 일을 하고 있는 것은 아닐까 싶다.
예수를 증명하는 것.
증거가 있으니 사람을 예수께 데려갈 수 있고 증거가 있으니 교회가 서고 커져간다.
실제로 안데레도 베드로도 죽을 때까지 예수를 계속 증명했다고 전해진다.
우리도, 증명해 나가고 싶다.
예수님을 바라보며 예수님에 의해 바꿀 수 있고 증명해 나가고 싶다.
그럴 때 우리가 증명하는 상대가 바뀔 수 있고, 그 사람에게도 새로운 삶이 열려간다.
우리가 그렇게 된 것처럼 그 사람도 바꿀 수 있고, 그 사람도 증명하는 사람으로 변해간다.
교회는 그렇게 전 세계로 퍼져나갔다.
지금은 지구 뒤편 이곳에도 교회가 있다.
그러나 우리 주변에는 구원받지 못한 사람이 얼마나 있을까.
그 사람들의 구원은 우리의 증거에 달려 있다.
그리고 우리가 증명할 때 구원자 예수 그리스도가 일해주신다.