今週の説教「人の心を知るイエス」
(新約聖書・ヨハネによる福音書2章23節から25節)
23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
多くの人がイエスを信じた。
しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。
とても残念な気持ちになる。
私たちもイエスを信じている。
しかし、イエスは私たちを信用していないとしたら。
私たちが信用されないというのは、分かると言えば分かる。
私たちは罪人。
神に逆らう性質がある。
聖書には、神に従っているつもりで、神に逆らう人もたくさん出てくる。
イエスを十字架につけた人たちは、神に逆らっているつもりはなかっただろう。
私たちはその人たちとは違うとは言えない。
しかし、イエスに信用されないと言われると、悲しい。
今日のところを通して読むと、イエスは人間を相手にしていなかったようにも感じられる。
それも、最初から相手にしないということではなくて、よく知っているから、信用しない。
すべての人のことを知っている。
私たちのことも知っている。
だから、人間について誰からも証ししてもらう必要がない。
誰かについて、他の人から話を聞かなければ分からないということはない。
すべての人の心の中まで知っている。
だから、何も聞かなくていい。
どんな人でも、信用できないということが分かっている。
悲しい。
ただ、この時、イエスを信じた人たちはどうしてイエスを信じたのか。
イエスがなさったしるしを見たから。
それも、この「しるし」という言葉は、1つではなく、たくさんのしるしを意味する言葉になっている。
人々はイエスがたくさん、奇跡を現すのを見た。
それで、イエスを信じた。
それは悪いことではない。
救い主は神の元から来るので、神の力、奇跡を現すことができると考えられていた。
だから、人々は、イエスの奇跡を見て、このイエスという人が救い主だと信じた。
それが、「イエスの名を信じた」ということ。
イエスを救い主だと信じること。
けれども、イエスはその人たちを信用しない。
どうして信用できないのか。
今日の場面のすぐ後のところで、ニコデモという人がイエスのところにやって来る。
そのニコデモはイエスに言う。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
ニコデモは、イエスが神の元から来られたと信じている。
ニコデモがそのように信じるようになったのは、しるしを見たから。
そのニコデモに、イエスは言う。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
イエスは、人を新しくして、神の国に入れてくださる救い主。
けれども、ニコデモにはそれが分からなかった。
救いが分かっていない。
それはニコデモだけではない。
この時代の人たちは、救いというのは、イスラエルがローマ帝国に支配されているところから自由にされることだと考えていた。
だから、救い主というのは、強い王様だと考えられていた。
イエスはそうではなかった。
だから、この福音書の少し後のところでも、イエスの話を聞いた弟子たちが、こんな話は聞いていられないと言って、イエスから離れていくということが起こった。
それも、弟子になった人たちの多くが、イエスの話を聞いて離れていったと6章66節に書かれている。
その後には、イエスを喜んで迎えた人たちが、イエスが逮捕されると、十字架につけろと叫ぶ。
その人たちは自分がおかしいことをしているとは思っていなかっただろう。
強い王様だと思っていたのに、逮捕された。
強くない。
じゃあもういらない。
殺してしまえ。
人間はそういうもの。
これでは信用することはできない。
私たちはイエスのことを強い王様だとは思っていない。
しかし、私たちにも同じようなことはないだろうか。
私たちも、イエスが、自分が考える通りの救い主であってほしいと思ってはいないだろうか。
イエスが自分の考える通りの方だったら、イエスに従う。
イエスがしるしを与えてくださるようなことがあると、もっと熱心にイエスを信じる。
でも、考えていないようなことが自分に起こったら、イエス様、何をしておられますか、どこにおられますか、という気持ちになる。
イエスが迷子になってしまったような気持ちになる。
または、考えていないようなことが起こると、自分の力をベースにして何とかしようと考える。
イエスの力を求めないわけではないけれども、それよりも、人間の力が第一。
誰にでもそういうことはある。
自分の信仰はここに出てくる人たちとは違う、自分の信仰は本物だと胸を張って言える人はいない。
そして、それは正しい。
イエスは、すべての人の心を知っておられる。
だから、イエスは人を信用しない。
しかし、私たちは見捨てられたのではない。
イエスは、すべての人の心を知っておられるのに、私たちのところに来てくださった。
私たちのことを知っておられるから、放っておけなくて、私たちのところに来てくださった。
イエスは人間を信用することはできない。
もちろんそう。
人間には罪がある。
イエスにとって信用できるような人間はいない。
だからこそ、来てくださった。
人間自身に任せておけないから。
すべての人の心を知っておられる。
だからこそ、来てくださった。
私たちの罪をすべて知っておられるから、それを取り除くことができる。
人間が信用できないから、任せておけないから、自分から十字架にかかってくださった。
私たちが、自分の救いのためにできることは何もない。
だからイエスは、私たちには何一つ任せずに、必要なことをすべてお一人で行ってくださったということ。
そして、十字架と復活の後、弟子たちは新しくされる。
聖霊の力。
弟子たちに約束してくださっていた通り、聖霊を与えてくださり、そこからは、弟子たちは救いを広めるために用いられていく。
それは、気持ちが変わって、後になってから弟子たちを信用するようになってくださったということではない。
聖霊が、神様が弟子たちに降ってきてくださって、働いてくださる。
聖霊の力で、一度は逃げ出して家の中に隠れていた弟子たちが、世界中に出ていって世界中に教会を建てていく。
これも人間を信用しておられないからだと言うのなら、そうだろう。
信用できない。
でも、見捨てない。
だから、神様が私たちの中に住んでくださる。
信用できないのに、いつも私たちと共にいてくださるというのは、どれくらいの愛があるか。
これが神の愛。
聖霊の力は愛の力。
その力が、弟子たちに、力を与える。
逃げて隠れていた弟子たちが、力にあふれて立ち上がる。
イエスは私たちのことも、そのようにしてくださる。
信用できない私たち。
私たちには任せておけない。
だから、私たちのために、イエスはすべてのことを一人でなさってくださった。
その上、いつも私たちと一緒にいてくださる。
私たちが力にあふれて立ち上がるように。
どうしてそこまでしてくださるのか。
私たちを愛しているから。
私たちがどういう人間なのか、すべて良くご存じ。
信用できない。
信用するべきではない。
でも、あなたのためなら何でもできる。
小さい子どもに対する親の気持ち。
信用できない。
何をしだすか分からない。
でも、この子のためなら何でもできる。
それが聖霊の愛。