7月31日礼拝

今週の説教「神は世を愛する」(新約聖書・ヨハネによる福音書316節から21節)

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

聖書を一言で言うと、この御言葉になる。

私は疲れた時には、口に出して20回、この御言葉を読む。

そうすると、自分が癒されるのを感じる。

本当にこの御言葉に支えられてきた。

この御言葉が好きだという方もたくさんいらっしゃるだろう。

 

ただ、今日の御言葉は、誰の言葉なのかということが問題になっている。

皆さんが持っておられる色々な聖書の翻訳でも、イエスの言葉ということになっているものもあれば、イエスの言葉が15節までで終わっているものもあるだろう。

プロジェクターに映っている翻訳では、全部イエスの言葉ということになっている。

しかし、イエスが神のことを神と言うだろうか。

イエスはいつも、神のことを「父」と言う。

自分のことなのに「御子」という言葉を使っているのもおかしいと思うかもしれないが、元々の言葉で言うと、「子」という言葉なので、イエスがご自分のことを「子」と言っているところは他にもある。

けれども、このすぐ前のところまでは、イエスは、ご自分のことを「人の子」と言っていた。

イエスがご自分のことを言うのは、「人の子」と言う方がずっと多い。

だとするとやはりここはイエスの言葉ではないのか、という気持ちにもなる。

けれども、今日の最初の16節には、ここに翻訳されていない言葉がある。

元々の聖書の言葉には、16節の最初のところに、「というのは」という言葉が付いていて、このすぐ前のイエスの言葉としっかり話がつながっていることになっている。

そう考えると、やっぱりイエスの言葉だということになる。

これ以上考えても答えは出ないけれども、この3章に入ってから、話がずっとつながっているということは言える。

3章の1節から8節は聖霊の話。

9節から15節は救い主イエス・キリストのこと。

今日の16節から21節は神のこと。

そして、今日の話の途中から、光と闇の話があって、話がしめくくられる。

この話は、3章の最初に、夜、暗い中、ニコデモという人がイエスのところに来たことから始まった。

そのニコデモに、光の方に来なさい、と言っている話になる。

とにかく、話としてはずっとつながっていて、しっかりしめくくられている。

なかなかすごいところ。

16節に、聖書を一言で言ったような力のある御言葉があって、その周りに、聖霊なる神の話と、神の子の話と、父なる神の話がつながっている。

今日の話は聖書で一番大事なところ。

この話をしっかり聞きたい。

 

神は世を愛された。

それは、この世が素晴らしいからではない。

この世の人たちが立派だからではない。

人間は神の子、救い主を受け入れない。

その意味で、人間は神に逆らう罪人。

だから、この世は神の目には暗闇だという話。

それでも、神は世を愛した。

愛せないようなものを愛するのだから、人間の愛とは違う。

人間同士の愛は、愛したいものを愛する。

そして、お互いがwin-winの関係になることを目指す愛。

お互いがプラスになるような愛。

神の愛は違う。

「愛」という言葉も、元々の聖書の言葉では、人間同士の愛を表す言葉とは違う言葉がつかわれている。

神の愛は、独り子を与えるような愛。

神の独り子が、罪人のために、身代わりになってくださった。

罪人である人間の代わりに罰を受けさせるために、神は独り子を与えてくださった。

Win-winではない。

神にとっては与えるだけ。

犠牲を引き受けるだけ。

それが神の愛。

聖書の愛。

 

どうしてそこまでしてくださるのか。

人間が滅びないためだと言われている。

私たちには、どちらか一つしかない。

滅ぶか、永遠の命を得るか。

永遠の命を得られないなら、滅ぶしかない。

そのことが、17節からのところでは、裁かれるか、救われるか、という言い方になっている。

私たちが何か悪いことをしたら、裁かれて滅ぼされる、ということではない。

人間は神に逆らう罪人。

救い主が来ても受け入れない罪人。

つまり、元々人間は滅ぼされるしかない。

その私たちを神が愛して、独り子を与えてくださった。

だから、この救いは、私たちが一生懸命神に従ったら、その後に与えられるというものではない。

神が私たちを愛してくださって、もうすでに救いは与えられている。

滅ぼされるはずの私たちに、もう救いが与えられている。

後はそれを受け入れるだけ。

神は、このままでは滅んでしまうぞ、と人間を脅しておいて、言うことを聞かせようというような方ではない。

何も言わずに十字架にかかってくださり、身代わりになってくださって、その上で、滅ぼされないように、救いを信じなさい、という話。

今日の話は、私たちを恐れさせてコントロールしようというような話ではない。

ここに書かれている通り、裁くためではなく、救うため。

救うために命がけで言っていること。

命を投げだしたからこそ、言えること。

 

日本の昔の話だが、ある王様に子ども(織田信長)がいて、王様の家来の一人がその子どもの教育を任せられたが、王様の子どもがなかなか言うことを聞いてくれない。

無茶苦茶な生活をしている。

一生懸命話したけれども、話しても話しても言うことを聞いてくれない。

最後にどうしたか。

その人は、王様の子どものために、まじめになってくださいと手紙を書いて、腹を切って死んだ。

 

聖書というのは、私たちのために、自分から死んだ方の言葉。

この私のために自分から死んだ方が、この私に、受け入れてくれと言っている。

これは、出来事としては、もうすでに起こったこと。

だから、「信じない者は既に裁かれている」。

実は裁きも、実際のところ、もう始まっている。

それが19節。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」。

信じない者は、自分から闇の方に、裁かれる方に向かっていってしまう。

どういうことかと言うと、20節。

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」。

この話は、隠していた悪いことが明らかになるという話ではない。

神の目に人間はもともと罪人。

しかし、もともと罪人ということは、人間にとっては罪があるのが普通だということ。

だから、何も言われなかったら、自分のことを罪人だとは思わない。

しかし、キリストの元に来ると、自分の罪に光が当たってしまう。

十字架の前では、人は罪人なんだということが明らかになってしまう。

キリストの十字架は救いの光だけれども、信じない人にとっては、悪者を探すサーチライト。

だから、信じない人は自分から闇の方に行く。

光から逃げていく。

十字架によって、実際のところ、もう、裁きは始まっている。

 

「しかし、真理を行う者は光の方に来る」とある。

「真理を行う」というのも、良いことを行うということではなくて、キリストを信じて救いをいただくこと。

そこで明らかになるのは、救いをいただいたというのは、自分から自分が罪人だと認めて、十字架の前に進み出て、救いをいただいたということではなくて、神がその人に働きかけてくださって、その人を導いてくださって、救ってくださっていたのだということ。

人間にとっては罪が当たり前なので、自分が罪人だとは思わない。

しかし、その私に、神の光が差し込んだ。

そして、救いの道に導かれた。

滅びの道しか知らなくて、滅びの道とも思わずに歩いていたところから、救いの道に導かれた。

私自身のことを思い出しても、全くその通り。

その時は分からなかったけれども、後から思い出してみると、全くその通り。

ただ、「その時は分からなかった」というのは本当に申し訳がない話。

私のために、自分から死んでくださった方が、私を導いてくださっていた。

それなのに、私はその時は気づかなかった。

私としては、本当に申し訳ない。

ただ、キリストにとってはどちらでも良かっただろう。

キリストにとって大事なのは、私を救うこと。

キリストは私に感謝してほしいとも思っていないだろう。

とにかく、光の方に来てほしい。

闇を闇とも思っていなかった私だけれども、何とかしてそこから、光の方に来てほしい。

そのために死んだ。

だからもう、救いを受け取ってほしい、それしか考えない。

今日の御言葉はそういう御言葉。

十字架の血で書かれたような御言葉。

どうぞこの御言葉を受け入れてください。

信じられないと思うかもしれない。

しかし、キリストは信じない者のために死んだんです。

私を導いてくださったキリストが、あなたを導いてくださいます。

This week's sermon, "God Loves the World" (New Testament, John 3:16-21)

 

God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whosoever believeth in Him should not perish, but have everlasting life. For he loved the world so much that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life.

The Bible can be summed up in one word: this Word.

Whenever I am tired, I read this verse out loud 20 times.

Then I feel myself being healed.

This Word has really supported me.

I am sure there are many people who like this Word.

 

However, the question is, whose words are today's words?

In the various translations of the Bible that you have, some say that they are the words of Jesus, while others may have Jesus' words ending at verse 15.

The translation you see on the projector says that they are all the words of Jesus.

But would Jesus refer to God as God?

Jesus always refers to God as "Father.

It may seem strange that he uses the word "Son" when he is talking about himself, but the original word is "Son," so there are other places where Jesus refers to himself as "Son.

But until just before this, Jesus referred to Himself as the Son of Man.

It is much more common for Jesus to refer to Himself as "the Son of Man.

If that is the case, one might be inclined to think that these are not Jesus' words after all.

But in the first 16 verses of today, there is a word that is not translated here.

In the original biblical text, the first part of verse 16 has the word "is," which is supposed to be connected to the words of Jesus immediately before this verse.

This means that these are Jesus' words after all.

I can't give you an answer even if I think about it further, but I can tell you that the story is connected all the way from the beginning of this chapter 3.

Verses 1 through 8 of chapter 3 are about the Holy Spirit.

Verses 9 through 15 are about the Savior Jesus Christ.

Today's verses 16 through 21 are about God.

And then, in the middle of today's story, there is a story of light and darkness to conclude the story.

This story began at the beginning of chapter 3, when a man named Nicodemus came to Jesus at night in the dark.

The story goes on to tell Nicodemus to come to the light.

Anyway, the story is connected all the way to the end.

It is quite an amazing part.

In verse 16, there is a powerful word that seems to say the Bible in a nutshell, and around it, the story of God the Holy Spirit, the Son of God, and God the Father are connected.

Today's story is the most important part of the Bible.

I want to listen to this story carefully.

 

God loved the world.

It is not because the world is wonderful.

It is not because the people of this world are splendid.

Man does not accept the Son of God, the Savior.

In that sense, man is a sinner who resists God.

So the story goes that the world is darkness in the eyes of God.

Yet, God loved the world.

It is different from human love because it loves that which is unlovable.

Love between human beings is loving what we want to love.

And love that aims for a win-win relationship with each other.

A love that is mutually beneficial.

God's love is different.

The word "love" in the original biblical language uses a different word than the word used to describe love between humans.

God's love is the kind of love that gives His only begotten Son.

God's only begotten Son took the place of sinners.

God gave His only begotten Son to take the place of sinners so that they could be punished.

It is not a win-win.

For God, He only gives.

He only accepts the sacrifice.

That is God's love.

Biblical love.

 

Why does God go to such lengths?

It is said that it is so that mankind will not perish.

We have only one choice.

Either we will perish or we will have eternal life.

If we cannot have eternal life, we must perish.

This is what he is saying in verses 17 and following: either we will be judged or we will be saved.

It does not mean that if we do something wrong, we will be judged and destroyed.

Man is a sinner who disobeys God.

Sinners who do not accept the Savior when He comes.

In other words, humans originally had no choice but to be destroyed.

God loved us and gave us His only begotten Son.

Therefore, this salvation is not something that is given to us after we follow God as hard as we can.

Salvation has already been given to us because God loves us.

We were supposed to be destroyed, but salvation has already been given to us.

All we have to do is accept it.

God is not the kind of person who threatens human beings, saying, "If you don't do what I say, you will be destroyed," and then makes you do what he says.

He said nothing, but took us to the cross and took our place, and then told us to believe in salvation so that we would not be destroyed.

Today's story is not about trying to make us afraid and control us.

As it is written here, not to judge, but to save.

What I am saying is that we risk our lives in order to save.

What we can say because we gave our lives to say it.

 

In an old Japanese story, a king had a child (Nobunaga Oda), and one of the king's retainers was entrusted with the child's education, but the king's child would not listen to him.

He is living an absurd life.

He tried his best to talk to him, but no matter how much he talked, he could not get him to listen to what he said.

What did he do in the end?

The man wrote a letter to the king asking him to be serious for the sake of the king's children, and then he died by disembowelment.

 

The Bible is the word of the One who voluntarily died for us.

The One who voluntarily died for me is asking me, this me, to accept it.

This, as an event, has already happened.

Therefore, "he who does not believe has already been judged."

In fact, the judgment, in fact, has already begun.

That is verse 19.

Light has come into the world, but people preferred the darkness to the light because of their evil deeds. That is already judgment.

Those who do not believe are moving themselves toward the darkness and toward judgment.

What does this mean, verse 20?

For "all who do evil hate the light, and do not come to the light, lest their deeds should be brought to light."

This is not a story about hidden bad things being revealed.

In God's eyes, humans are sinners by nature.

But being sinners by nature means that sin is normal for humans.

So if we were not told anything, we would not think of ourselves as sinners.

But when one comes to Christ, one's sins are illuminated.

Before the cross, it becomes clear that one is a sinner.

The cross of Christ is the light of salvation, but for those who do not believe, it is a searchlight looking for the evil one.

Therefore, those who do not believe go toward the darkness themselves.

They run away from the light.

With the cross, in fact, judgment has already begun.

 

But he who does the truth will come to the light.

Doing the truth" does not mean doing good things, but rather believing in Christ and receiving salvation.

What becomes clear then is that receiving salvation does not mean admitting oneself to be a sinner, stepping forward to the cross, and receiving salvation, but that God was working on the person, leading him or her, and saving him or her.

I don't think of myself as a sinner because sin is so natural to human beings.

But the light of God shined on me.

And I was led to the path of salvation.

I was led to the path of salvation from a place where I knew only the path of destruction and did not even think of it as the path of destruction.

When I think back to myself, it is absolutely true.

I didn't understand it at the time, but when I remember it later, it is absolutely true.

However, I am really sorry to say that I did not understand at the time.

The One who voluntarily died for me was guiding me.

And yet, I did not realize it at the time.

As for me, I am truly sorry.

However, it would have been fine for Christ either way.

What is important to Christ is to save me.

I don't think Christ would have wanted me to thank Him either.

Anyway, I want the light to come to me.

I didn't even think of darkness as darkness, but somehow I wanted to come to the light.

That is why I died.

That's all I can think about now, that I want you to receive salvation.

That is what today's verse is about.

It is a Word that was written in the blood of the cross.

Please accept this Word.

You may think it is unbelievable.

But Christ died for those who do not believe.

Christ who led me will lead you.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이번 설교 하나님은 세상을 사랑하신다(신약성경 요한복음 3 1621)

 

신은 외동아이를 주셨을 정도로 세상을 사랑하셨다.외아들을 믿는 자가 하나도 망하지 않고 영원한 생명을 얻기 위해서다.

성경을 한마디로 하면 말씀이 된다.

나는 지칠 때면 내뱉고 20 말씀을 읽는다.

그러면 자신이 치유되는 것을 느낀다.

정말로 말씀에 의지해 왔다.

말씀을 좋아하시는 분들도 많이 계실 것이다.

 

다만 오늘의 말씀은 누구의 말이냐 하는 것이 문제가 되고 있다.

여러분이 가지고 계신 여러 성경 번역에서도 예수님의 말씀으로 되어 있는 것도 있고 예수님의 말씀이 15절까지로 끝나 있는 것도 있을 것이다.

프로젝터에 비친 번역에서는 모두 예수님의 말씀으로 되어 있다.

그러나 예수가 하나님을 신이라고 할까.

예수님은 항상 하나님을 아버지라고 말한다.

자기 일인데 '자녀'라는 말을 쓰는 것도 이상하다고 생각할 있지만 원래 말로 하면 ''라는 말이므로 예수님이 자신을 ''라고 말하는 곳이 있다.

하지만 얼마 전까지만 해도 예수님은 자신을 남의 자식이라고 하셨다.

예수님이 자신을 말하는 것은 사람의 자식이라고 말하는 분이 훨씬 많다.

그렇다면 역시 이곳은 예수님의 말씀이 아닌가 하는 생각도 든다.

하지만 오늘 16절에는 여기 번역되지 않은 말이 있다.

원래 성경 말씀에는 16 첫머리에 '라는 것은'이라는 말이 붙어 있고, 바로 예수님의 말씀과 확실히 이야기가 연결되어 있는 것으로 되어 있다.

그러고 보면 역시 예수님의 말씀인 셈이다.

이상 생각해도 답은 나오지 않지만, 3장에 들어서면서부터 이야기가 계속 이어지고 있다는 것은 말할 있다.

3장의 18절은 성령의 이야기.

915절은 구원주 예수 그리스도를 말한다.

오늘의 16절에서 21절은 하느님.

그리고 오늘 이야기 도중부터 빛과 어둠 이야기가 있어서 이야기가 막힌다.

이야기는 3 처음에 , 어두운 가운데 니코데모라는 사람이 예수님께 데서 비롯되었다.

니코 데모에, 쪽으로 오라는 이야기가 된다.

어쨌든, 이야기로서는 계속 연결되어 있고, 단단히 조여져 있다.

대단한 .

16절에 성경을 한마디로 같은 있는 말씀이 있고, 주위에 성령하신 하나님 말씀과 하나님 말씀과 아버지 하나님 이야기가 연결되어 있다.

오늘 이야기는 성경에서 가장 중요한 부분.

말을 제대로 듣고 싶다.

 

신은 세상을 사랑받았다.

그것은 세상이 훌륭해서가 아니다.

세상 사람들이 훌륭해서가 아니다.

인간은 신의 자식, 구원자를 받아들이지 않는다.

그런 의미에서 인간은 신을 거스르는 죄인.

그래서 세상은 신의 눈에는 어둠이라는 이야기.

그래도 하나님은 세상을 사랑하셨다.

사랑할 없는 것을 사랑하니 인간의 사랑과는 다르다.

인간끼리의 사랑은 사랑하고 싶은 것을 사랑한다.

그리고 서로가 윈윈 관계가 되는 것을 목표로 하는 사랑.

서로에게 보탬이 되는 사랑.

신의 사랑은 다르다.

사랑이라는 말도 원래 성경말씀에서는 사람끼리의 사랑을 나타내는 말과는 다른 말이 쓰이고 있다.

하나님의 사랑은 외동아이를 주는 것과 같은 사랑이다.

하나님의 외아들이 죄인을 위해 대신해주셨다.

죄인인 인간을 대신해 벌을 받게 하기 위해 하나님은 외동자를 주셨다.

윈윈 아니다.

신에게는 뿐이다.

희생을 맡을 뿐이다.

그것이 신의 사랑.

성경의 사랑

 

그렇게까지 해주실까?

인간이 망하지 않기 위해서라고 한다.

우리에게는 어느 하나밖에 없다.

망할 것인가, 영원한 생명을 얻을 것인가.

영원한 생명을 얻지 못한다면 망할 수밖에 없다.

그것이, 17절부터의 부분에서는, 재판받느냐, 구원받느냐, 라고 하는 말투로 되어 있다.

우리가 잘못한 있다면 재판을 받고 망한다는 아니다.

인간은 신을 거스르는 죄인

구원이 와도 받아들이지 않는 죄인

, 원래 인간은 멸망할 수밖에 없다.

그런 우리를 하나님이 사랑하셔서 외동아이를 주셨다.

그러므로 구원은 우리가 열심히 하나님을 따르면 후에 주어진다는 것이 아니다.

하나님이 우리를 사랑해 주셔서 이미 구원은 주어졌다.

망해야 우리에게 이미 구원이 주어졌다.

나중에는 그것을 받아들일 .

신은 이대로 가다가는 망하고 말겠다고 인간을 협박해 놓고 말을 들려주려는 분이 아니다.

말없이 십자가에 박혀주시고 대신 해주시고 망하지 않도록 구원을 믿으라는 말씀.

오늘 이야기는 우리를 두렵게 하고 통제하자는 이야기가 아니다.

여기 적혀 있는 대로 심판하기 위해서가 아니라 구하기 위해서.

구하기 위해 목숨을 걸고 하는 .

목숨을 내던졌기에 있는 .

 

일본의 이야기지만 어느 임금에게 자녀(오리타 노부나가) 있어 왕의 하인 명이 아이의 교육을 맡겼는데 왕의 자녀가 좀처럼 말을 들어주지 않는다.

엉망진창 생활을 하고 있다.

열심히 얘기했지만 말해도 말을 들어준다.

마지막에 어떻게 했나?

사람은 임금님의 자식을 위해 성실해지라고 편지를 쓰고 배를 가르고 죽었다.

 

성경이란 우리를 위해 스스로 돌아가신 분의 말씀.

나를 위해 스스로 죽는 분이 나에게 받아달라고 한다.

이것은, 사건으로서는, 벌써 일어난 .

그래서 믿지 않는 자는 이미 재판을 받고 있다.

사실 재판도, 실은, 벌써 시작되었다.

그게 19.

빛이 세상에 왔는데 사람들은 행동이 나쁘니 빛보다 어둠을 선호했다.그게 이제 재판이다.

믿지 않는 자는 스스로 어둠 속으로, 심판받는 쪽으로 가버린다.

무슨 말이냐면 20.

악을 행하는 자들은 모두 빛을 미워하고 행실이 드러날까봐 쪽으로 오지 않기 때문이다.

이야기는 숨기고 있던 나쁜 것이 밝혀질 것이라는 얘기가 아니다.

신의 눈에 인간은 원래 죄인이다.

그러나 원래 죄인이라는 것은 인간에게 죄가 있는 것이 보통이라는 .

그래서 아무 말도 듣지 않으면 자신을 죄인이라고 생각하지 않는다.

그러나 그리스도 품에 오면 자신의 죄에 빛이 비치고 만다.

십자가 앞에서는 사람이 죄인이라는 것이 밝혀지고 만다.

그리스도의 십자가는 구원의 빛이지만 믿지 않는 사람에게는 악한 자를 찾는 서치라이트.

그래서 믿지 않는 사람은 스스로 어둠으로 간다.

빛에서 도망치다.

십자가에 의해, 실제로, 이제, 재판은 시작되었다.

 

그러나 진리를 행하는 자는 쪽으로 온다.'라고 되어 있다.

진리를 행한다는 것도 좋은 일을 행한다는 것이 아니라 그리스도를 믿고 구원을 받는 .

거기서 드러나는 것은 구원을 받았다는 것은 내가 죄인임을 인정하고 십자가 앞으로 나아가 구원을 받았다는 것이 아니라 하나님이 사람에게 압력을 가하시고 사람을 인도해 주시고 구원해 주셨다는 .

인간에게는 죄가 당연하기 때문에 자신이 죄인이라고 생각하지 않는다.

하지만 그런 내게 신의 빛이 비쳤다.

그리고 구원의 길로 인도되었다.

망하는 길밖에 몰라서 망하는 길인 줄도 모르고 걷다가 구원의 길로 인도되었다.

자신을 떠올려도 전혀 그렇지.

그때는 몰랐지만, 나중에 생각해 보니 전혀 그렇지.

다만 그때는 몰랐다는 정말 미안한 얘기.

저를 위해 스스로 죽으신 분이 저를 이끌어 주셨다.

그런데도 나는 그때는 눈치채지 못했다.

나로서는 정말 미안하다.

다만 그리스도에게는 어느 쪽이라도 좋았을 것이다.

그리스도께 소중한 것은 나를 구하는 것이다.

그리스도는 나에게 고마워하기를 원하지 않을 것이다.

아무튼 쪽으로 왔으면 좋겠다.

어둠을 어둠이라고 생각하지 않았던 나지만, 어떻게든 거기에서, 빛이 있는 쪽으로 왔으면 좋겠다.

그것 때문에 죽었다.

그래서 이제 도움을 받았으면 좋겠다, 그것밖에 생각하지 않는다.

오늘 말씀은 그런 말씀.

십자가의 피로 쓰인 듯한 말씀

부디 말씀을 받아 주십시오.

믿을 없을 같아.

하지만 그리스도는 믿지 않는 때문에 죽었죠.

나를 인도해 주신 그리스도께서 당신을 인도해 주십니다.